「人間はひとつの無償の情熱である」(見田宗介)。- 走るメロスの無償の情熱に見るもの。 / by Jun Nakajima

「走れメロスー思考の方法論について」と題される、社会学者の見田宗介の小論は、「小論」という言葉に似合わずに、「思考の深さ」へとどこまでも誘う言葉たちで紡がれている。

この小論は、『現代思想』の「見田宗介=真木悠介特集」(2016年1月臨時増刊号)における論考のいくつかへの「応答」として書かれたものである。

応答は、思考の方法論を主軸として、三つのことがらに絞って展開されている。

一 南端までー往還について
二 不器用な磁石ー刃物について
三 ナワトルの歌ー無償化について

これらの内、「三 ナワトルの歌ー無償化について」は、何度読んでも、思考と心をゆさぶられる、美しい文章である。

その中に、人間の<自我>の基底となる「個体」に関する、明晰を極める文章がある。

 

 人間の<自我>の基底となる「個体」は、元々は生命世界のあらゆる「個体」と同様に、生成子(遺伝子)の再生産の方法とし、装置として形成されたものであったが、ひとり人間の個体のみが、大脳皮質の極度の発達という進化のランナウェイ(cf 孔雀の羽根!)をとおして自己=目的化し、生成子の鉄の目的合理性(効用性)から自立し、解放される。どんな目的にも仕えることのないものとして無償化し、それゆえにどんな目的をもつことのできるものとして主体化する。人間はひとつの無償の情熱 passion inutileである。無償とは禅の根本義<無功徳> inutile である。走るメロスの無償の情熱は、人間存在の凝縮である。…

見田宗介「走れメロスー思考の方法論について」『現代思想』2016年9月号

 

真木悠介(=見田宗介)の名著『自我の起原』をベースにした言葉たちである。

「進化のランナウェイ」とは、進化生物学の理論の一つで、文字通りで読めば、進化の「暴走」である。

進化生物学では、「孔雀の羽根」を題材に語られたりする。

人間の自我は、孔雀の羽根の進化プロセスのように、進化の「暴走」ではないかと、見田宗介は論理を展開している。

本来は、生命世界では種の「再生産」の中で生命はプログラムされているが、人間は「進化の暴走」によって再生産という目的とプログラムから、自立してしまう。

つまり「自由」となる。

この自由を得た者は、どんな目的にも仕えることのないものとなることができるし(=無償化)、どんな目的をももつことができる(=主体化)。

そのようにして、人間は、その起原において、(すでに)自由である。

人は、経済や社会や文化などのはるか手前のところ、その<自我>という存在の起原において、生命世界でただひとり自己=目的化し、生きてゆくことのできる自由を得ている。

見田宗介は、ここで、「人間はひとつの無償の情熱である」と語る。

生成子(遺伝子)の再生産から解き放たれた人間は、「無償の情熱」として、生きてゆく(ことのできる)存在である。

『走れメロス』の走るメロスは、「無償の情熱」としての友情に導かれて、生きる。

人間存在の凝縮された形が在る。

 

上記で述べられる「自由」は、一言で言えば「人間の自我の脱目的性」である。

「一度さまよい出た者はどこにもで行くことができる」という、自由であることの根拠である。

再生産のループから解放された人間は、どんな目的をもつこともできるし、もたないこともできる。

 

見田宗介は、この小論の最後で、この「自由」について、さらに明晰を極める論理を提示している。

現実的・実際的に自由であることには「二つの前提」があるということである。

第一に、「どこにでも行ける」ということ。

これは上述の通りであるが、現実的に自由であるためにはもうひとつの前提が必要である。

それが第二の前提として、どこかに行けば、幸福の可能性(=「希望」)があるということである。

この第二の「希望」の根拠のひとつが、例えば、無償の情熱として注がれる、走るメロスの「友情」である。

市民社会や生命世界などにおける相克性の世界の中で、派生的かつ部分的かもしれないけれども、走るメロスの無償の情熱は、確かな「希望」のひとつである。