Angelique Kidjo(アンジェリーク・キジョー)。
西アフリカに位置するベナンに生まれ、20代前半にパリに移り、今はニューヨークをベースとするシンガーソングライターである。
アフリカ音楽をその倍音と基調にしながら、さまざまなジャンルや音楽家の音楽に彩られた音楽を奏でる。
また、音楽を超えて「活動家(Activist)」として、アフリカの女性のエンパワーメントなどに取り組んできている。
国連の親善大使なども務めてきており、その活動の幅には驚かされる。
最も影響力のあるアフリカ人として、各紙が取り上げてきた人物だ。
2年前の2015年に、ここ香港で初めて、コンサートの舞台に立ち、その歌声を届けた。
ぼくはそれまで、西アフリカ出身のAngelique Kidjoを知らなかった。
グラミー賞など数々の賞を受賞している経歴から、「一流」の音楽に触れようと、ぼくは香港文化センターに足を運んだ。
普段はクラシック音楽が奏でられるホールに機材が置かれ、音楽と共に、Angelique Kidjoが現れる。
彼女の出で立ちは、西アフリカ(ぼくが住んでいたシエラレオネ)の女性たちを思い起こさせる。
小柄な身体から放たれる、どこまでも届くような歌声は、魂のレベルに直接に届く響きに満たされている。
小さなホールは、徐々に、彼女の歌声とアフリカダンスの世界にひたされてゆく。
事前に「音楽の予習」をしていかなかったぼくも、次第に、彼女の世界にひきこまれる。
彼女の歌声は、ほんとうに、まっすぐな歌声である。
歌と歌の間に彼女から発せられるメッセージも、まっすぐである。
そのどこまでもまっすぐな響きが、ぼくの心に矢のようにとんでくる感じだ。
しかし、彼女の「まっすぐさ」は、ただのまっすぐさではない。
いわば、言葉にしきれない苦悩と苦闘を内にする者が、あるいはそれらを乗り越えてきた者だけが放つことのできるような「まっすぐさ」である。
アフリカの「状況」を飲み下して発せられる声であり、アフリカの「語られ方」に異を唱える方法としてのまっすぐさでもある。
ぼくが感じる「アフリカ的」なものを語るならば、それは大地から発せられるような、地に足のついた声。
それは、シエラレオネの大地と人びとを、ぼくに思い出させた。
コンサートが終わって、その「熱」にうかされながら、ぼくはシエラレオネ人の友人(元同僚)にメッセージを送ってしまったほどだ。
Angelique Kidjoも、ぼくのシエラレオネ人の友人も、共に、アフリカ人女性のエンパワーメントに力を注いでいる。
コンサートも終盤、Angelique Kidjoは、観客たちを舞台に呼び寄せ、ダンスの共演空間を創りだした。
(ダンスを得意としない)ぼくは舞台には上がらなかったけれど、この光景は今でもこの身体に残っている。
Angelique Kidjoは、さらに、曲中に舞台から観客席におりて、観客の合間をかけめぐってゆく。
通路側の席にいたぼくは、運よく、Angelique Kidjoと握手を交わした。
<志の力>をいっぱいにもらったように、ぼくは感じた。
コンサートでパフォーマンスを楽しむ以上のものを、たくさん受け取ったのだ。
その受け取った「ギフト」は、彼女に出会った個々の人たちが自らの生で芽を育て、花を咲かせるような地点に向けて肩を押してゆくようなところに、Angelique Kidjoの力はある。
CDやYouTubeなどでは決して得ることのできない「体験」を、ぼくは得た。
<志の力>に、身体でふれてゆく「体験」は、なにものにも代え難いものとなった。