人間の「余剰エネルギー」のゆくえ、にかんする野口晴哉の考察。- これからますます大切になる視点。 / by Jun Nakajima


野口晴哉の著作『体癖』(ちくま文庫)を読みながら、その中に収められている「体の自然とはなにか」という考察に、ぼくは目をとめる。

野口晴哉が書くように、人間が自然の動物であったということを痛感せざるを得なくなったのは、人間による生活技術が進歩して、生活のすみずみにまで浸透していることでもある。

人間だけが、環境に適応するだけでなく、環境を人間に適応させていく。

ぼくが窓の外に見るような船も自動車も、それからここ香港にひろがるエアコンの環境も、人間が生活技術を発達させてきたことによるものだ。

 

野口晴哉は、そのような近代・現代社会を生きながら、次のように問いを立てる。

 

…人間の生活エネルギーは、他動物に比べて著しく余剰を来たしたとて不思議ではない。
 その余剰エネルギーはどこにいくのだろう。他動物なら肉体の発達とか、体力の充実とかになるであろうが、すでに肉体労力を不要としている人間にあっては、肉体の発達の必要もない。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

「余剰エネルギー」はどこに行ってしまうのかと、野口晴哉は問いを立て、その問いへの考察をシンプルに論理をくみながらすすめる。

 

 動物の動くのは要求の現象である。人間においても同じであって、そのエネルギーは欲求となり欲求実現の行動に人間をかりたてる。…人間は後から後から生じる欲求を、実現せんものとあくせくし続ける。…しかし欲求実現のために他動物はその体を動かすのだが、人間生活の特徴はその大脳的行動にある。坐り込んで機械器具を使って、頭だけをせっせと使うのだから余剰運動エネルギーは、方向変えして感情となって鬱散するのは当然である。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

ぼくたちの「余剰運動エネルギー」は、ぼくたちの「大脳的行動」を回路とし、「方向変えして感情となって鬱散する」のだと、野口晴哉は当然のこととして語る。

 

…八十の老婆も火の如く罵り、髭の生えた紳士も侮辱されたと憤る。四十秒の赤信号が待ちきれないで運転手は黄色になるや否や飛び出す。足もとも見ないで遮二無二苛だっている姿は理性のもたらすものとはいえない。余剰エネルギーの圧縮、噴出といえよう。人間に安閑とした時のないのも、また止むを得ない。しかしこれとてエネルギー平衡のための自然のはたらきであって、他の動物はこれによって生の調和を得ているのである。人間はその余剰によって生活に混乱を来たしているのであるが、しかしこれもまた自然の良能である。人間もまた自然のはたらきによって生きているのである。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

「余剰によって生活に混乱を来たしている」状況は、だれしもが、経験していることである。

野口晴哉は、これも自然のはたらきであると、人間の地層のもっとも深いところにまで降りる視点で、人間の身体をみつめている。

 

現代におけるメディテーションやマインドフルネスなどへの注目、走ったり泳いだりの様々な運動によるエネルギーの燃焼などは、「余剰運動エネルギー」をリダイレクト(方向転換)させる方法である。

これからの時代がひらけてゆくなかで、野口晴哉が言うような「余剰エネルギー」の問題と課題は引き続き、ぼくたちが直面していくものだ。

生活技術のさらなる進展が予測される未来において、さらなる「余剰エネルギー」をぼくたちは、ぼくたちの内に宿していくことになる。

ぼくたちの身体は、多くの生命が共生している、ひとつの<エコシステム>である。

その<エコシステム>は、余剰エネルギーをかかえている。

それは、いわば、ぼくたちの身体における環境問題だ。

人工知能(AI)などがきりひらいていく未来において、ぼくたちは、この「余剰エネルギー」という内なる環境問題とむきあっていくことが求められる。

人間の体と真正面からむきあってきた野口晴哉の真摯な考察が教えてくれることは、これからますます大切になってくるように思われる。

人間はこれから「技術との融合」をどのように、どの程度していくのかはぼくにはわからないけれど、それでも、人間が生きることの「自然のはたらき」という地層はなくなることはないと(ゼロになることはないと)、(現時点では)考えるからだ。