『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一、マガジンハウス刊)は、1937年に発刊された名作を、漫画化した作品。
発売から2ヶ月強で、50万部ほどの売れ行きを見せているという。
主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さんが、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。
ぼくは原作を読んだことがなく、この漫画をひもとくことで、この作品世界に初めて入っていくことになった。
漫画化された作品は、マンガと共に、手紙という形式の「文章」とのコラボレーションにより、立体的な作品世界をつくりだしている。
吉野源三郎が、タイトルを「君たちはどう生きるか」と質問型にしたことに、この作品における思想のひとつが顕現している。
近所に引越してきたおじさんに、コペル君は、学校で起きた出来事について相談をする場面がある。
おじさんは、次のように、コペル君に応答する。
つまり、そんなときどうすればいいのか……
おじさんに聞きたいってことかい?
そりゃあ、コペル君
決まってるじゃないか
自分で考えるんだ。
『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス
生きる道ゆきで出会う本質的な出来事は、「答え」のない、出来事だ。
ただし、そこに「自分なりの答え」を見つけてゆくことに、おじさんはコペル君を導いてゆく。
そして、導きながら(一緒に考え、よりそいながら)、おじさんも人生の道をきりひらいていく。
コペル君とおじさんという<関係性>を見ながら、世代的に<横のつながり>で占められる現代の若者たちの姿が、ぼくの脳裏に浮かぶ。
コペル君が化学の「分子」を考えながら気づくように、世界は「つながっている」のだけれど、グローバル化する世界での現代的な関係性は逆に「狭い関係性」へと人を押しこめてしまうようなところがある。
名著たるゆえんが、言葉ひとつひとつ、あるいは物語の中に、いっぱいにひそんでいる。
潤一(コペル君)の亡き父が残した言葉は、ぼくの中でこだまする。
私は……
潤一に
立派になってほしいと思っています……
人間として立派なものに……
『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス
現代であれば、「幸せになってほしい」と、願うのかもしれない。
幸せではなく、「人間として立派なもの」にという願いは、「幸せ」だけに狭まれない、より大きな空間であるように、ぼくには見える。
このように、物語を構成するひとつひとつの出来事に、多くの物語が詰まっている。
言葉の「使われ方」の前でも、ぼくは立ち止まる。
一昔前の作品だからか、言い回しは少し現代とは異なるところがある。
おじさんはコペル君宛の文章で、次のような箇所がある。
…それを味わうだけの、心の目、心の耳が開けなくてはならないんだ。
『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス
「心の目、心の耳を開ける」ではなく、<心の目、心の耳が開ける>である。
ただ時代の言葉の違いかもしれないけれど、ぼくにとっては、この「を」と「が」の違いはとても大きいものだと感じられる。
名著は、いろいろな「読み方」ができる。
ベストセラーは、その作品の力であるとともに、ひとつの社会現象である。
今回は相当にこだわってきた企画が背後にあるようだが、社会現象ということにおいては、作品が読者を獲得するのではなく、読者たちが作品をつかみとるものだ。
硬質なタイトルである「君たちはどう生きるか」という言葉による問いが、読者たちの何に響いたのだろうかと、ぼくは考えてやまない。
この本は、無限にひろがってゆく<問い>を、ぼくたちの中に蒔く。
漫画と文章の素敵なコラボレーションの中でも、<吉野源三郎>が投げかける言葉と問いが、通奏低音のごとく作品にひびいている。
君たちは、どう生きるのか、と。