「潤一(コペル君)」(『漫画 君たちはどう生きるか』)が、この世界に溶けていってしまいそうな気がするとき。 / by Jun Nakajima


『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)。

1900年代前半(原作の出版は1937年)の日本の東京を舞台に、主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さん(おじさん)が、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。

 

物語の中で、潤一(コペル君)が、おじさんが近所に引越してきたばかりのころ、おじさんと銀座のデパートに行く場面がある。

化学に興味をもったばかりの潤一は「分子」という不思議さを通して、デパートの屋上から人通りを見る。

潤一は、そのデパートの屋上で、次のような「気の遠くなってしまいそうなへんな気持ち」を感じることになる。

 

デパートの屋上で僕は……
自分がこの世界に溶けていってしまいそうな気がして
ほんとはちょっぴり恐かった。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス

 

「分子」の不思議さを通して、目に見えているものはなんだって、どんどん拡大して見ていくと、いずれ「分子」にたどりつくという学びが、潤一の想像力をかきたてたのだと、文脈からはひとまず読める。

しかし、その感覚は、ぼくたちがときに、感じる感覚でもある。

大人になって忙しくしていると、なかなかそのようなことを思う瞬間は訪れないかもしれないけれど、子どもたちは「この世界の不思議さ」に幾度も、<じぶんというもの>の解体の契機に出会うものだと思う。

潤一のこの気持ちと感覚にみちびかれてゆくように、ぼくはこの作品世界の中にひきこまれていったように感じる。

 

この気持ちと感覚は、ぼくに「宮沢賢治」のことを思い出させた。

『君たちはどう生きるか』の原作者である吉野源三郎が児童文学者であったように、宮沢賢治も童話作家でった。

潤一が化学・科学の世界に魅かれたように、宮沢賢治も、例えば、アインシュタインの相対性理論を学んでいたという。

その宮沢賢治が永眠についたのが1933年であったから、それからまもなくして、『君たちはどう生きるか』の原作が出版されている。

 

宮沢賢治は、<じぶんというもの(現象)>に、きわめて敏感な人であったことを、社会学者の見田宗介は著作(『宮沢賢治』岩波書店)の中で書いている。

宮沢賢治の研究者である天沢退二郎が、賢治の作品『小岩井農場』の分析の中で、賢治がもつ<雨のオブセッション(強迫観念)>を指摘ていることにふれながら、見田宗介は、<雨>のもつ両義性(「…くらくおそろしく、まことをたのしくあかるいのだ」)に、<自我>の両義性をみている。

<自我>がぼくたちを「守る」ためにくりだす「恐い気持ち・感覚」がある一方で、<自我>から解き放たれるときに感じる「たのしくあかるい」感覚があることを、ぼくたちは知っている。

潤一(コペル君)は、この<自我>の両義性を、あの銀座のデパートの屋上で経験することになる。

このような自我の本質にふれる機会をも、『君たちはどう生きるか』という作品は、ぼくたちに与えてくれている。

「生きる」ということにおける、さまざまな本質がいっぱいにちりばめられているのが、この作品だ。

この作品に限らず、児童文学の名作たちは、大人になったぼくに、ほんとうに多くのことを教えてくれる。

そして、「自分がこの世界に溶けていってしまいそうな経験たち」の記憶が、かすかに、ぼくの中でよみがえってくる気配を、ぼくは感じることになるのだ。