二十世紀の終わりに、ぼくは、
「もがきの閉塞」とでも呼ぶべき
生きにくさに出口を探して、日本の
外に飛び出し、旅をくりかえした。
ぼくが「生きにくさ」を感覚していた
(当時の)日本は、どのような時代に
おかれていたのかを振り返るとき、
社会学者の見田宗介の有名な理論が
導きの糸となる。
「現実」という言葉は、三つの反対語
をもっています。「理想と現実」「夢
と現実」「虚構と現実」というふうに。
日本の現代社会史の三つの時期の、
時代の心性の基調色を大づかみに特徴
づけてみると、ちょうどこの「現実」
の三つの反対語によって、それぞれの
時代の特質を定着することができると
思います。
見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
「三つの時期」について、見田は、
下記のように、理論を展開している。
●理想の時代:1945年~1960年頃
*プレ高度成長期
●夢の時代:1960年~1970年代前半
*高度成長期
●虚構の時代:1970年代後半~。
*ポスト高度成長期
人びとは、それぞれの時代において、
<理想><夢><虚構>に生きようと
してきた、という。
「現実」ということとの関わりに
ついて、見田宗介は、続けて、この
ように書いている。
「理想」に生きようとする心性と
「虚構」に生きようとする心性は
現実に向かう仕方を逆転している。
「理想」は現実化(realize)する
ことを求めるように、理想に向かう
欲望は、また現実に向かう欲望です。
…虚構に生きようとする精神は、
もうリアリティを愛さない。
二十世紀のおわりの時代の日本を、
特にその都市を特色づけたのは、
リアリティの「脱臭」に向けて
浮遊する<虚構>の言説であり、
表現であり、生の技法でもあった。
見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
ぼくが生まれ、そして「旅」をくり
かえしていた時代は、この考え方で
いくと、<虚構>の時代であった。
ぼくは、「虚構の時代」にあって、
<理想>や<夢>を生きようと、
もがいてきたように、振り返る中で
思う。
それは、格好悪いことであったかも
しれない。
トレンドにのっていなかったことか
もしれない。
でも、<ほんとうのもの>を、ぼくは
探していた。
その中で、「方法としての旅」があった。
自分の身体を、まったく異なる社会
に投じた。
五感をひらくことで、自分を変えよう
とした。
旅先で、とにかく、歩いた。
歩いて、見えてくるものがないか、
ぼくは、上海の街を、香港の街を
歩いていた。
ニュージーランドでは、徒歩縦断という、
人生の「無駄」に生きた。
方法を探しもとめ、自ら実験し、思考する。
「旅」は、いつの日か、仕事という形
で、ぼくを世界に連れだった。
紛争の傷を深く負った人たちとその社会、
紛争から立ち直る人たちとその社会。
日々を一所懸命に生きる人たち。
どんなに「悲惨な現実」をも、乗り超えて
いく人たち。
そんな人たちと、そのような社会で、
ぼくは生きてきたのだ。
そして、そんな中で、
どうしたら、この時代に、よりよく生きて
いくことができるのか、を、
失敗をいっぱいにしながら、
生きて、考えている。
このブログはそのような試みのひとつである。
追伸:
作家・辺見庸も、同じ時期に、虚構では
ない、「生きたことば」を探し求めて
いた。
彼の文章は、身体から、絞り出された
ような、言葉たちである。
ぼくは、その頃から、「生きたことば」
に敏感になりはじめた。