香港の観光スポットである「黄大仙」
の寺院(道教・仏教・儒教)に行って
きた。
近くにあるためか、寺院の前を何度も
通り過ぎながら、10年間、一度も
行ったことがなかった。
混むことを予想し、朝9時30分頃には
到着した。
しかし、すでにツアー客(中国大陸と
韓国からのツアーが多い)でごった返
していた。
「黄大仙」の寺院を通じて、
ぼくは「香港なるもの」の3つのこと
を考えた。
(1)小さいけれど何でもある香港
イメージでは黄大仙寺院は、とても
大きいと勝手に思っていた。
でも、実際に行ってみて、非常に
コンパクトにまとまっていた。
庭園などもあるけれど、全体的に
小さい。
香港は、その中に、何でもある。
香港のすごいところだ。
けれども、小さい。
黄大仙のような寺院も、香港には
ある。
黄大仙寺院は立派な建築であり、
それはそれで素晴らしい。
けれど、規模は小さい。
(ただし、「占い館」の店舗数は
圧巻であった。)
(2)ビジネスへのコミットメント
ビジネスへのコミットメントは
熱いものがある。
その熱意には、いつもながら、感心
してしまう。
占い師たちは、通りがかるぼくたち
に声をかけてくる。
一所懸命な占いへの誘いである。
黄大仙の駅から寺院につながる道
では、ご年配の方々が、一所懸命に
お線香を売っている。
ご年配の方々は独自のルールで
一列に並び、順番で、声がけをして
くる。
(ぼくもかなり迫られた。)
「香港なるもの」を感じるひと時
である。
(3)喧騒の中の「修行」
寺院は喧騒につつまれていた。
寺院の脇も、寺院の中も、人が行き
交い、声がとぶ。
香港の喧騒の中での「祈り」は
相当にむずかしいことを感じる。
ぼくは特定の宗教をもたない。
でもマインドを落ちつかせる
メディテーションはする。
喧騒の中でも、喧騒をものとも
しない心と精神をもつことは、
ある意味「修行」である。
香港はそんな機会を与えてくれる。
10年で相当鍛えられてきた
ぼくも、まだまだであることを
感じたひと時であった。
それにしても、
やはり「体験」は大切であること
を感じさせてくれた、黄大仙。
「書を捨てよ、街に出よう」
(寺山修司)の実感値が上がった、
「黄大仙」であった。