1995年7月、初めて、香港に来た。
飛行機でする旅としても、初めてで
あった。
成田空港から、香港の(今はなき)
啓徳空港へのフライトであった。
今でもいつもそうなのだけれど、
「飛行機」が空を飛ぶという不思議さ
に、当時も思考の迷宮に陥っていた。
前年の1994年の夏は、
横浜港から上海への3泊4日のフェ
リーの旅であったこともあり、
たった3時間半ほどで日本から香港
へ着いてしまうことに、ぼくは
驚くばかりであった。
機内に乗り込む人たちを見ながら、
この人たちは、どんな思いで、飛行機
に乗って香港に向かうのだろうと、
ぼくは物思いにふけてしまう。
その機内で、ぼくの隣の席は、
若い日本人夫婦(のよう)であった。
夫である彼の方が、ぼくに話しかけて
きた。
彼らは中国生まれであった。
小学生くらいまでの人生を中国で
過ごし、それから日本に移った。
ご家族が在留孤児であったようだ。
彼は自衛隊に入隊し、
ひとまずの任期が終わり時間が
できたところで、旅に出たとのこと
であった。
機内ではいろいろな話をした。
自衛隊で、サリン事件で出動した
こと。
また、関西大震災でのことなど。
1995年は、1月に関西大震災、
そして3月には東京でサリン事件
が発生していた。
1995年3月20日、昼近くに、
ぼくは起床。
電車に乗って大学に向かうとき、
ぼくは、その路線のすぐ先で、
朝方にサリン事件が起きたことを
知った。
香港への旅は、同じ年の夏のこと
であった。
彼らに出会えて、いい人たちに
出会えたことを感謝した。
一人旅を通じて、ぼくは、
ほんとうに多くの人たちに出会
えた。
返還前の香港で、中国で、タイで
ベトナムで、ラオスで、ミャンマー
で。
その後も、シエラレオネ、東ティ
モール、香港で暮らしていく中で
いろいろな人たちに出会ってきた。
ぼくは「人との出会い」を考える。
第一に、出会ってきた人たちが、
ぼくの「内的な世界」を豊饒に
してくれた。
東京の部屋を出て、世界に飛び出
してみて、ぼくの「内的な世界」
は、いろいろな人たちと出会う中
で書き換えられていった。
「内的な世界」が、砂漠のようで
あるとしたら、
そこに木が植えられ、オアシスが
でき、街ができ、人が行き交い、
そのようにして「世界」ができて
いくようであった。
「自分(という現象)」は、
他者の集積でもある。
他者の「声」が、内化されて、
「自分」という現象が形成されて
いく。
「自分」は、その本質にして、
一人ではなく、他者の集まりで
ある。
出会いが与えてくれたことの
二つ目は、
「いろいろな生き方」や「いろ
いろな人生」があってもよいのだ
という感覚であった。
それまでは、人生は大別すると
二つしかないと思っていた。
レールにのる人生と
レールにのらない人生。
今思うとバカバカしいけれど、
当時のぼくは真剣に悩んでいた。
世界のいろいろなところで
世界のいろいろな国・地域の
人たちに出会う中で、この感覚と
考え方が崩れた。
人生は、カテゴリー化を許さない
のだと。
人の数だけ、人生はあるのだと。
だから、ぼくも、
魅力的な人生をつくっていきたい。
他者の「内的な世界」を豊饒化
するような生き方であり、
人生の数は人の数だけあるという
生き方である。
ぼくの(そして、ぼくと人生の
パートナーの)人生の旅は、まだ
始まったばかりだ。