香港にふりそそぐ雨に触発されて思うこと。- 「雨の楽しみ方」への想像力の獲得。 / by Jun Nakajima


香港では、夏至にむかって、雨が降ってはやみ、やんでは降る。
今年初の台風を迎えた後も、雨が香港に、ふりそそいでいる。

香港での過ごし方においては、住む場所と行く場所にとっては、雨も台風も、「避けること」ができる。
香港は、多くの建物が「屋根」でつながっているからである。

例えば、住んでいるマンション、フラットなどから、電車(MTR)の駅までつながっている。
駅の真上にマンションが位置していると、エレベーターで下におりると、すぐに駅だ。
それから、電車に乗って、目的地の駅でおりる。
その駅から、そのまま通路でつながっている仕事場やショッピングモールなどに向かう。
さらに、ショッピングモールから他のショッピングモールが、通路でつながっていたりする。

便利さと効率さが追求されている。
香港ならではの都市開発のかたちである。

養老孟司の言葉を借りれば、「脳化=社会」の徹底されたかたちでもあるように、ぼくには見える。
都市とは、「脳」がつくりあげた人工物である。
その本質は「人間のコントロール」をすみずみまで徹底させることにある。

だから、雨などの自然を含め、コントロールできないものを排除し、あるいはコントロール下におけるようなかたちをつくる。
香港の都市は、その中心部を「屋内通路」でつなげることで、自然をコントロール下におく。

脳化=社会では、自然は疎外される。
雨は、「悪い天気」である。

しかし、子供たちは、そんなことお構いなしに、「悪い天気」をのりこえてしまう。
ぼくは、繰り返し、子供たちの、この「のりこえ」に遭遇する。
「脳化=社会」と「子供たちによる乗り越え」については、別のブログにも同じ視点で書いた。

雨がふりそそぐなか、ぼくは、マンションを出て、他の棟の前を駅に向かって歩いていく。
アーケードや屋根があるから、傘をささなくても、雨をしのぐことができる。

そのうち、香港の3歳から5歳くらいの子供たちが、ぼくの視界にはいってくる。
子供たちは、レインコートを身にまとい、レインブーツをはいて、みずから、雨のなかにのりだしていく。

その眼は、雨をふらす空を見上げ、きらきらとした輝きをともしている。

雨に濡れないように、という大人たちの言葉と制止をはねのけて、雨のなかに幸せのかたちをつかむ。

子供たちは「脳化=社会」からはみでていく「自然」である。

ぼくたちは、大人になるにつれて、理性のなかで雨を疎外し、楽しみのひとつをなくしていく。

ぼくは子供に「負けたな」という思いがあるものの、やはり、極力、雨を避けようとする。


 

村上春樹の旅行記のなかで書かれる「悪い季節」の過ごし方が、ぼくの心象風景に、しずかに横たわっている。

村上春樹は「ウィスキーの匂いのする小さな旅の本」をつくるために、スコットランドのアイラ島におりたつ(旅自体は2000年よりも前のことだ)。
アイラ島はシングルモルト・ウィスキーの聖地である。

ただし、アイラ島は、夏の数ヶ月をのぞくと、気候は魅力的ではないという。
冬はとにかく雨がふり、風は強く、とにかく寒い。
それでも、この「悪い季節」にわざわざ辺鄙なアイラ島に来る人たちは少なくないという。

 

…彼らはひとりで島にやってきて、何週間か小さなコテージを借り、誰に邪魔されることもなくしずかに本を読む。暖炉によい香りのする泥炭(ピート)をくべ、小さな音でヴィヴァルディーのテープをかける。上等なウィスキーとグラスをひとつテーブルの上に載せ、電話の線を抜いてしまう。文字を追うのに疲れると、ときおり本を閉じて膝に起き、顔をあげて、暗い窓の外の、波や雨や風の音に耳を澄ませる。つまり悪い季節をそのまま受け入れて楽しんでしまう。こういうのはいかにも英国人的な人生の楽しみ方なのかもしれない。…

村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』新潮文庫

 

雨がふりそそぐと、(天気が悪いなあという内なる声のひとつを制止して)ぼくはまず「感謝」をする。
香港の海に、香港の大地にふりそそいでいる雨に感謝する。

それから、世界のいろいろなところのことを思う。
東ティモールのコーヒーの木々にふりそそぐ雨を想像し、コーヒーの花が見事に咲くとよいと思う。
西アフリカのシエラレオネの井戸に、雨の水が、長い時間をかけて、地層に濾過されながらたまっていくとよいと思う。

感謝をしてから、ときに、「英国人的な人生の楽しみ方」にならう。
コテージも暖炉もないけれど、本をしずかに読む。

文字を追うのに疲れると、顔をあげて、窓の外にひろがる海と小さな森に目をやり、雨や風の音、鳥の声に耳を澄ませる。

子供たちのように雨のなかにとびだしていくことはしないけれど、ぼくにも「想像力」はある。
楽しみ方のかたちは、想像の彼方にまで、ひろがっていくはずだ。

そして、この想像の彼方に、「近代・現代」のあとにくる時代を準備する<萌芽>があるのだということ。
雨をふらす地球の有限性のなかに、想像力という無限の力が、いっぱいに解き放たれるのだということ。

香港にふりそそぐ雨にのって、ぼくの想像は、さまざまなイメージと思考を、ぼくの<内面の地層>にふりそそいでいる。