言語・ことばを伝えること、そしてそれが相手に届くこと。
ぼくたちはつくづく願う、「ことばが届きますように」と。
歴史は、人類が言語・ことばによって、「人間社会」をつくり、「文明社会」を拓いてきたことを語る。
しかし、歴史はまた、言語・ことばの信頼性を崩してきた時代の存在を、ぼくたちに伝える。
日々、ぼくたちは、言語・ことばを、相手に伝えても伝えても届かないことのフラストレーションと悔恨を、なんどもなんども飲み下す。
このような生のなかで、ぼくたちのとることのできる「道」は、二つである。
- フラストレーションと悔恨のなかに身をうずめ、ことばへの信頼をなくし、ことばの限界の内だけに生きていくこと。
- ことばの限界を理解しつつ、それでもことばの力を信じ、相手にことばが届くように工夫を重ねていくこと。(「メタ言語性=言語性の限界を知る言語性」ということを、別のブログで書いた。)
二つ目の道をとるためには、「ことばの力を信じること」の、経験の土台が必要である。
そして、経験の濃度の違いこそあれ、だれもが、ことばがほんとうに届く経験、あるいはことばを超えて届くような経験をもっているはずである。
村上春樹は、旅のなかで出会ったウィスキーの味と、その味を支えている人たちの姿を見聞きした感動を、ことばにうつしかえていく。
その「ウィスキーの匂いのする小さな旅の本」を書きながら、村上春樹はしみじみと思う。
「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と。
もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。…
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』新潮文庫
素敵な写真で彩られた、このとても美しい本は、ウィスキーの味と人びととの交歓という「感動」が、写真と文章からにじみでている。
しかし、村上春樹は、「ことばの限定性」を前にして、次のように語る。
…残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面(しらふ)のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らはー少なくとも僕はということだけれどーいつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』新潮文庫
村上春樹は、このようにして、「ことばの限定性」を前に、それはそれとして、しかしそれを乗り越えていく。
第一に、「ことばの限定性」を理解すること。
第二に、「僕らのことばがウィスキーであったなら」と、願うこと。
第三に、願いを「ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある」という自分の経験にかえること。
そして、この経験たちを「ことばの力」を灯す炎として、絶えず燃やしつづけていくこと。
ぼくたちは、ことばの限定性のなかで、しかし「ことばの力」を信じ、ことばがウィスキーになることを夢見、工夫を重ねていく。そうして、ときに夢は現実化される。
それにしても、もし、ことばがいつも完全に、完璧に、相手に伝わり、届いたら、と考えてしまう。
仕事や家庭や社会における、日々のミスコミュニケーション・誤解の連続のなかで、ついつい、そのような「願い」が頭をもたげる。
でも、そのような世界は、やはり「つまらない」のではないかと、思い直す。
そのような世界は、争いもないけれど、また感動もない世界である。
不完全性のなかに、完璧ではないなかに、アートがうまれ、詩がうまれ、恋文がうまれる。
そのようなことばや、ことばにならないことばの伝達の繰り返しの中で、ぼくらの「ことばがウィスキーになること」がある。
だから、ぼくは、「ことばの力」を信じ、こうして日々、せっせと、時間という名の「ぼくの命」を文章にそそぎこんでいる。