社会学者「見田宗介=真木悠介』先生
による、朝日カルチャーセンターの
「講義」(2001年3月24日)は、
その内容においても、そのスタイルに
しても、ぼくを捉えてやまなかった。
(ブログ「社会学者「見田宗介=真木
悠介」先生の講義で学んだこと。」)
この「講義」が行われた2ヶ月程後に
見田宗介は、著書『宮沢賢治』が
岩波書店「岩波現代文庫」に入ること
になり、そこに、
「現代文庫版あとがき」を書いている。
「宮沢賢治」という作家、また、
著書『宮沢賢治』について書かれた、
1頁程の短い文章は、とても美しい。
宮沢賢治、という作家は、この作家の
ことを好きな人たちが四人か五人集ま
ると、一晩中でも、楽しい会話をして
つきることがない、と、屋久島に住ん
でいる詩人、山尾三省さんが言った。
わたしもそのとおりだと思う。
…この本も、読む人になにかの「解決」
をもたらす以上に、より多くの新しい
「問い」を触発することができると
よいと、そしてこのような新鮮な問い
の交響する楽しい小さい集まりが、
世界中に増殖する火種のひとつとなる
ことができるとよいと、思いながら
書いた。
見田宗介「現代文庫版あとがき」
『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』
岩波書店(岩波現代文庫)
上述のとおり、この「あとがき」は、
ぼくが聴講した講義の日から2ヶ月
ほど経った2001年5月に、書きとめ
られている。
そのことに、ぼくは、この文章を
書きながら、あっと、気づいた。
この「気づき」は、
昨日ぼくがブログで書いた、
「見田宗介=真木悠介」先生の講義
で学んだこと(の内の二つ)に、
そのまま照応するものであった。
1)交響圏
朝日カルチャーセンターの「講義」
のタイトルは、著作と同じく、
「宮沢賢治 存在の祭りの中へ」
と題されていた。
その「テーマ設定の背景」は、
見田宗介先生が講義の冒頭で語った。
「『テーマ』(what)ではなく
『どういう人たちと関わってみたいか』
(with whom)ということ。」
「どういう人たちと関わりたいか」
ということ。
この「岩波現代文庫版あとがき」は、
このことに応えているように、ぼくに
は見える。
それは、
「新鮮な問いの交響する小さな集まり」
である。
朝日カルチャーセンターでの講義
での「小さな集まり」も、
そのような集まりの一つであった。
このような「交響する小さな集まり」
が、見田宗介が大澤真幸との対談で
語ったような「幸福のユニット」で
ある。
そしてそれは、これまでの「革命」
とはまったく異なるような、未来の、
「名づけられない革命」を切り開く
主体である。
(「名づけられない革命」について
は、見田宗介『社会学入門ー人間と
社会の未来』岩波新書、を参照。)
2)夢中・熱中
見田宗介は「その時々に自分が熱中
している研究を、そのままストレート
に講義でもゼミでもぶつけ」ることで
他者たちを、深いところで、触発して
きた。
そのことがそのまま、
2001年の前半の出来事にあてはまる。
2001年前半に自分が熱中していた
ことを、そのまま、
講義でも「現代文庫版あとがき」でも、
ストレートに語りかけていたという
ことである。
この夢中さ・熱中さは「触発する力」
を静かに、でも確かに、発揮してきた。
少なくとも、ぼくの中には「火種」が
灯された。
この「現代文庫版あとがき」の美しい
文章は、その「短い言葉」だけでも、
他者の中に「問い」を触発するもので
ある。
ぼくの視点と感覚からは、
この「現代文庫版あとがき」における
「宮沢賢治」は、そのまま
「見田宗介=真木悠介」に置き換える
ことができる。
「見田宗介=真木悠介」という社会
学者は、この学者のことを好きな人
たちが四人か五人集まると、一晩中
でも、楽しい会話をしてつきること
がない。云々。
このような「幸福のユニット」の
交響する集まりと歓びが、
著作と講義名の副題に付された、
「存在の祭りの中へ」ということの
内実のひとつである。
追伸:
今回のブログは、当初、
講義でぼくが見田宗介先生にさせて
いただいた「質問」について書く予定
でした。
ところが、「岩波現代文庫版あとがき」
をたまたま読んでいたら、
そこに付された「日付」に目が留まった
わけです。
朝日カルチャーセンターでの講義と
同時期であったことの「気づき」は
新鮮な驚きと「新鮮な問い」を、
ぼくに与えてくれました。