「異国」での生活に慣れるまでの時間。- 経験と実感、また藤原新也の言葉に耳をすませながら。 / by Jun Nakajima

「異国」での生活に慣れるまでの時間ということを、日本の外に出るようになってから、時折考える。

旅という形もあれば、当面住むという形もある。

自分の経験と実感を頼りにしながら、他者の経験と感覚にも耳をかたむける。

写真家・作家の藤原新也は、『沈思彷徨』(ちくま文庫)という作品のなかで、次のように、述べている。
 

…食物の味は二、三週間でわかってくる。異国ではそういう壁を乗り越える時点がある。音が聞こえてくる時点、目が見えてくる時点、味がわかってくる時点がある。人間の五感の解放はその土地で違うが、一般的には三ヵ月かかる。

藤原新也『沈思彷徨』(ちくま文庫)
 

「その土地で違うが…」と言うように、自分がこれまで住んでいたところとの、環境的・文化的差異の大きさにもよってくる。

しかし、藤原新也は、自身の「沈思」のなかから、三ヵ月という時間を目安として提示している。

「土地」以外に、個人差などもあるが、ぼくの経験と実感からして、この三ヵ月という時間は、それなりに「妥当」なところだと、思う。

そして、もしかしたら、人間の身体の細胞が入れ替わる時間の長さとも、若干の関連性があるのではないかという想念が、ふと、立ち上がる。

人間の身体の細胞は、身体の部位それぞれに、それぞれの周期で、細胞が入れ替わっていく。
 

さらに、異国で「仕事」をしていく際に、仕事に慣れるまで、どのくらいの時間・期間がかかるか、ということが問われる。

どのくらいの時間・期間で仕事に慣れるかということは、「時間」の効率化を要請するビジネスにおいて、大切である。

即戦力としてパフォーマンスを上げていく上で、できる限り短い時間で、異国での仕事に慣れることが求められる。

この「時間の長さ」も、その土地、個人差などに左右される。

また、所属の形式(駐在か現地採用かなど)、仕事の内容、求められる役割など、仕事そのものに関連する要素によっても変わってくる。

しかしながら、経験と実感からして、「三ヵ月」というのは、「ひとまず」という次元において、必要とされる時間の長さだと思われる。

さらに、例えば、組織全体を見渡せるようになることなどとなると、時間を密にしたとしても、半年から1年ほどのスパンがかかる。

これは、頭だけで理解するというより、経験を通じてわかるというレベルである。
 

ぼくは、アジアなどへの旅とは別に、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そしてここ香港に暮らしてきた。

その都度、心身をひらいて、生活・仕事に慣れては、慣れをほどいていった。

ここ香港での生活は10年を超える。

人間の骨の細胞は7年周期で入れ変わるというから、ぼくの身体細胞は香港にいる間に、すっかりと変わったはずだ。

身体の細胞が変わりつつ、それでも、ぼくの身体には、それぞれの場所の生活とリズムなどが、刻まれている。

その場所に戻れば、きっと、刻まれている生活とリズムが、発動されると思う。
 

ただし、最近は、「異国での生活に慣れるまでの時間」は、短縮されているようにも、感じる。

背景としては、「均質化」の力がはたらいていることだ。

場所によっては、似たような環境・文化になってきていることが挙げられるだろう。

グローバル化の進展が、例えば「都会の風景」を均質化しているのだ。
 

他方で、ぼく個人としては、環境・文化的差異をつらぬいて存在している、この地球に、根をおろしたい(「根をもつことと翼をもつこと」の両立)。

差異を超えて、そこに在る、太陽や月や海や緑、そして鳥たちにつながることで、ぼくたちの生きることの「土台」は、どこにいても同じであるということもできる。

その上で、環境・文化としての「多様性」が花ひらくところで、(異国での生活に慣れながら)新しく心身をいれかえていくという鮮烈な経験を、ぼくたちは楽しむことができる。