香港は、本日(8月27日)、先日の台風の記憶が新しいままに、そしてまだ倒木や施設の復旧が完全ではないなかで、早朝から次の台風の影響を受ける。
先日ほどの強度はないけれど、強風が建物をうち、横降りの豪雨に見舞われる。
それにしても、ここ数日、住まいの界隈を歩きながら、先日の台風の強さを感じることになった。
至るところで、木が倒れ、木の太い枝が折れ、木の葉が立ち枯れてゆく。
「台風の強さ」を感じていたぼくは、しかし、同時に悲しさのようなものを覚える。
いつも歩いている歩道の脇の木々を眼にしながら。
ぼくは、そして気づくことになる。
いつも歩いている歩道の木々たちが、どれほど、ぼくの内面を支えてくれていたのかということを。
人は何かを失ったり、なくしたりしてはじめて、その普段の「存在」の大きさを感じる。
それは人であったりする。
しかし、それは自然でもある。
普段なにげなく通りすぎていた道の脇にたたずむ木々が、いつしか、ぼくの内面の風景の、大切な一部となっている。
台風によって、それを失ってみてはじめて、木々の「存在」を深いところで感じる。
人は、環境に左右されないで、自分で物事の解釈をし、どうするかを選択することができる。
しかし、他方で、それでも、環境というものの影響を感じる。
環境を超えてゆくことができることと同時に、環境に生かされている人の存在ということ。
そんなことを考えながら、木々たちへの感謝の気持ちが、ぼくの内面にわきあがる。
社会学者の見田宗介が取り上げている、ジュール・シュペルヴィエールの詩が思い起こされる。
森がある 鳥たちが年々この森にやってくる
森が伐採されて一本の木になってしまうと それでも鳥たちは この一本の木に向って集まってくる
この一本の木も伐り倒されてしまうと それでも鳥たちは この森の不在に向ってたち帰ってくる
見田宗介「近代日本の愛の歴史 一八六八/二〇一〇」『定本 見田宗介著作集 IV - 近代日本の心情の歴史』岩波書店
とても印象的な詩である。
見田宗介はこの詩を取り上げながら、現代日本の若者たちの「愛」のゆくえ(愛の不在)を、深く暖い眼で見ている。
ぼくは、倒れ、立ち枯れ始めている木々を見ながら、「森の不在」にたち帰ってゆく鳥たちの気持ちーもしそのようなものがあればということだけれどーが、少しだけれど感じることができるような気がする。
「森の存在」はそれほどまでに、鳥たちの存在の一部となっているのだということ。
木々や森たちの存在が、どれほど深く、人の存在の一部となっているのかということ。
そして、人は、選択し行動することができることを思う。
「不在」を<存在>に変えることができる。
「森の不在」を<森の存在>に、そして「愛の不在」を<愛の存在>に。