『論語』という書物は、ひろく人びとをとらえてやまない書物であったことは、論語に関連する本の多さ、たとえばビジネスと論語をつなげた本などのつらなりからも知ることができる。
『論語』岩波文庫版の訳注者である金谷治は、冒頭の「はしがき」で、論語に対して「古くさい道徳主義を連想する人も少なくないはずだ」と想定しながら、そのような人たちの多くが「いわゆる食わず嫌い」であるだろうとし、そのような人たちによっても論語がひろく読まれることを期待している。
岩波文庫版は、『論語』の原文・読み下し・現代語訳があわせて掲載されているから、「食わず嫌い」の読者にとってもありがたい構成となっている。
ところどころ読んだ『論語』の文章のなかに道徳主義的なものを感じ、この書物から遠ざかっていたぼくは、岩波文庫版の『論語』を読みながら、やはり、どこかに「古くさい道徳主義」的なものを感受してしまう。
きっちりと読みたいなと思いながら、他方で読めないなと思ってしまう。
そのように行き交う気持ちを、思ってもみなかった仕方できりひらき、導いてくれたのが、能楽師でもある安田登による『論語』の読み方の教示であり、読解であった。
『論語』の読み方について、安田登は、つぎのように、核心を一気につきぬける。
…『論語』を読むときに注意しなければならないのは、それを現代の文字で読んではいけないということです。なぜならば、孔子の時代にはない漢字が『論語』の中に使われているからです。
「現代の文字で読んではいけない」という読み方(「正しい」読み方というよりは、読み方のひとつ)。
ぼくがまったく思ってもいなかった仕方で、安田登は、読み方の方法を提示しているのだが、この方法が、『論語』を読むことにおいて、「光」が差し込むように、ぼくの前に提示されたのであった。
孔子は紀元前500年くらいの人で、安田登が指摘するように、ゴータマ・シッダールタやソクラテスなどと同時代人であり、カール・ヤスパースが「軸の時代」と名付けた時代、思想が一気に開花した時代の生きていたのである。
しかし、『論語』が書かれたのは(諸説あるだろうけれど)それから400年ほど経過してからであって、ゴータマ・シッダールタの教えと同様に、書かれるまでは「口承」で伝えられてきたものである。
孔子の時代の文字は(現在の研究からは)「金文」(青銅器に刻まれた文字)であったといい、『論語』が書かれたときに、当時(漢)の文字で書かれたという、その「ギャップ」に、安田登は注意を向けている。
とても合理的な考え方である。
そのようなギャップの一例として安田登が挙げているのが、『論語』に出てくる「四十にして惑わず」という、「不惑」である。
「四十にして惑わず」などとは思わないということが、いろいろな人たちによっても語られてきたし、実際に、ぼく自身の経験としても、そんなことはない、と言わざるをえない。
より詳細な説明は安田登自身の言葉にふれるのがよいと思うが、簡単に言うと、「惑」という漢字は古くには見られないこと(甲骨文にも、西周の金文にも、孔子時代の金文にもない)、だから、孔子は「不惑」などとは言っていなかったかもしれないこと、代わりを調べてみると(「心」を取った)「或」という字体があることである。
そして、文字の成り立ちから見ると、「或」とは、「境界によって、ある区間を区切ること」を意味するといい、また藤堂明保によれば、「惑」とは「心が狭いわくに囲まれること」だという。
安田登はこうして「不惑」を「不或」と考え、「分けない心」「限定しない心」、あるいは(心に限る必要はないから心を外して)「限りない身体」というように捉えている。
つまり、じぶんはこういう人間だと限定しがちな四十歳の人たちに向かって、「自分を限定してはいけない」と言っているのだということになる。
孔子という人の思想や人柄を考えてみてみても、このほうが、整合性があるのだともいうことができると思う。
それにしても、『論語』の「原文」はそれが書かれた時代の漢字だ(ある意味ではそのとおりなのだが)と思い込み、その地平だけから読み取ろうとすることから解放してくれる安田登の方法と読解に、ぼくは強く惹かれるとともに、ほんとうに多くのことを教えられるのである。
そしてなによりも、『論語』というものの世界が、幾重にも深くなって、ぼくの目の前に現れてくる。