映画『The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society』(2018)は、同名の小説をもとにした作品。
日本語訳の小説タイトルは『ガーンジー島の読書会』とつけられている。
オリジナルの名前はとてもしゃれていて、ある意味でこの作品の核心をつきぬけているのだけれど、わかりやすくするために「読書会」に焦点をしぼったのだろう。
なお、「The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society」とは、この読書会の団体名である。
映画は、第二次世界大戦が終わったばかりの1946年、ロンドンに拠点をおく作家Juliet Ashtonのもとに、イギリス海峡に位置し、戦時下ドイツに占領されていた歴史をもつガーンジー島(the island of Guernsey)に住むDawsey Adamsから手紙が届き、その手紙のやりとりから、物語が展開してゆく。
物語の展開は、1946年の「現在」という物語と、ドイツ占領下の1941年に思いもかけない仕方で「The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society」が結成され、活動を続けていた「過去の記憶」の物語とが交差されながら、すすんでゆくのである。
この映画を「どのように見るか」は、もちろん人それぞれであるし、ひとつの映画のなかに、人それぞれにいくつもの共感や関心やテーマを見出してゆくものである。
ぼくがこの映画に惹き込まれたのは、物語と言葉が、人と人とを「つなげる」世界のあり様であった。
貧窮極まる、ドイツ占領下のガーンジー島に暮らす幾人かが、思いもかけない仕方で「本」を読むようになり、文字通り、「本」に生かされることになる。
物語と言葉が、「現在」の人たちをつなげ、また、著者と読者を幸福な仕方でつなげる。
このことのリアリティを、ぼくは感じざるを得ないのである。
なによりも、ぼく自身、「何か」がくずれさってゆくような感覚のなかで、「物語」に支えられたことがある。
2006年東ティモールのディリ騒乱で、銃撃戦の最中にまきこまれ、翌日に国外に退避したことの経験である(今の東ティモールはとても平和であることを付け加えておく)。
規模と被害などにおいて第二次世界大戦などと比べものにならないながらも、紛争がぼくの精神に与える影響の一端を垣間見たのであった。
ぼくの精神の風景には、数日後日本に戻ってからも、寒々とした風景がひろがり、何かがくずれてゆくようであった。
ぼくを支えてくれたのは、「本」であり、そこにひろがる「物語」であった。
日々、ぼくは本屋さんに立ち寄ることで、なんとか、精神を維持していたようなところがある。
だから、ぼくのなかに刻印されたそのリアリティの地点から、ぼくは映画のなか、戦争・占領下において精神がくずれさってゆくような状況で、「物語と言葉」が人と人とをつなげ、また人それぞれの精神を支え、この世界とのつながりを維持してゆくあり様を見て、そこに惹かれたのだと思う。
これは、あくまでも、ぼくの見方である。
人は食べ物がなければ生きてゆけないこととは異なる次元で、しかし、人は物語と言葉がなければ生きてゆけない。
この映画は、そこのリアリティに降りてゆく作品でもある。