「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。 / by Jun Nakajima

「ほんとうの自分」ということが問われたりします(今日は文体を少し変えて書こうと思います)。

今生きている自分はほんとうの自分ではなくて、ほんとうの自分は異なるんだ、という問題意識です。

日々生きているなかで、そのような意識が、どうしても切実に現れてくる。

この「ほんとうの自分」を見つけ出す旅は、「自分探し」と呼ばれたり(今ではあまり言われなくなりましたね)、「自己実現」という言葉を持ち出してきたりして、いろいろに模索され、語られてきました。

それにしても、そのような「旅」に出た人たちが、「ほんとうの自分」を見つけたと明快に書いているレポートを、ぼくは(あまり)見ていません(「あまり」と書くのは、人によって明快さは異なっていて「見つけた」ということも人によって異なるからです)。


ちなみに、ぼくにとっては、「ほんとうの」ということ以上に、「自分」ということの方が、もともと切実なこととして現れてきたのでした。

「自分探し」とか「自己実現」などの言説がメディアでしばしば語られることになるよりも前の時代に多感な時期を過ごしたからかもしれませんが、「自分探し」においても、また「自己実現」ということにおいても、「探し」や「実現」ということ以上に、「自分」や「自己」そのものに対して、ぼくはやむにやまれない疑問、また居心地の悪さをもってしまったのです。

そのような疑問や居心地の悪さは、たとえば、「二重人格じゃないの」という友人からのフィードバック、あるいは太宰治『人間失格』の登場人物のなかに投影する仕方で感じたりするものでした。

でも、それは、「二重」の人格、つまり、「嘘の自分」がいて、「ほんとうの自分」がいるというように、単純には考えられないようなものであり、むしろ「多重人格」的な様相にも見えるものだったのです。

そのようなものとして、「自分」とか「自己」とかは、なにか「確固なもの」(実体があるもの)というのではなくて、自在に変わるようなものとして、ぼくには感じられていたのです。

のちに本を読むようになって、実にたくさんの人たちが、宮沢賢治も、見田宗介も、養老孟司も、内田樹も、南直哉も、平野啓一郎も、同じように感覚していることを知って、いくぶんかの安心ととめどない興味をわきあがらせてゆくことになるのですが、この「自分」や「自己」や「自我」という問題が、ほんとうに切実なものとして、ぼくの生きるという経験に立ち現れてきたことが、ぼくが生きてきた中での「軸」としてありつづけてきたことを感じます。


ざっくりと言ってしまうと、世の中には、「『自分・自己』という「もの」が確固として/実体としてあると信じている人」と「『自分・自己』という経験は現象にすぎないと見ている人」とがいるわけです(あくまでも「ざっくり」ということであって、実際はそのような感覚を対極としてその中間もあるわけですが)。

普段の生活のなかでは、これら二つの立場がコンフリクトすることは、見た目はないかもしれませんが(あくまでも「見た目」です)、やはり、なにかの話や事を深くすすめてゆくようなときに、「根本的な違い」として現れてくることがあるようにも思うわけです。

いつものことながら、どちらがよいわるいということを言いたいのではなく、そのような「違い」があるのだということを知ることが、他者やじぶんを理解するためにも大切だと考えるところです。

そして、海外に暮らしながら、異なる文化に身を入れ、異なる言語でコミュニケーションをとることは、いっそう、ぼくを「自分・自己」という問題領域におしだしてゆくのです。

が、このことは、別の機会にでも書こうと思います。


ここでは最後に、見田宗介が読み解く「宮沢賢治」から、問題の核心をいっきに突く文章を取り上げます。


 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です

 宮澤賢治が生前に刊行したただひとつの詩集である『春と修羅』の序は、<わたくしといふ現象は>ということばではじまっている。自我というもの、あるいは正確にいうならば自我ということが、実体のないひとつの現象であるという現代哲学のテーゼを、賢治は一九二〇年代に明確に意識し、そして感覚していた。

見田宗介『宮沢賢治』岩波書店、1984年


学生のころ、はじめて『春と修羅』を読んだときにはまったくひっかかってこなかった一節が、今では切実なものとして、生きられることばとして、ぼくのなかで立ち上がってきます。