生きかたにかんする「必読書」の一冊。- 真木悠介『気流の鳴る音』という必読書。 / by Jun Nakajima


「海外に出てゆくさいの『必読書』の一冊」として、以前、内田樹の著作『日本辺境論』(文春文庫)を挙げました。

今回は、枠をおしひろげて、「生きかた」にかんする「必読書」を挙げてみたいと思います。

「必読書」と書くからには、誰にとって、何のために必須とされる書物なのか、ということが明らかにされなければなりませんが、「生きかた」を探求する人たちにとって、よりよい生きかたを考え/実践するためと、ひとまずは書いておきたいと思います。

ぼくの想像のなかで「生きかた」というクラスをたとえば持つとしたら、必読書として、最初に挙げる本です。

書名は、ブログのタイトルにすでに記しましたが、真木悠介の著作『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)です。

40年前の著作ですが、この40年のあいだに「文庫版」(ちくま学芸文庫、2003年)の形になり、また真木悠介の著作集にも収められました。

『気流の鳴る音』には、本編「気流の鳴る音」のほかにも、本編と共振する文章が収められていますが、本編は、「生き方を構想し、解き放ってゆく機縁」として、カルロス・カスタネダが描くインディオの世界に出会ってゆくことが、目的とされています。

真木悠介は、社会学者である見田宗介の筆名ですが、この本が書かれた当時、<近代のあとの時代を構想し、切り開くための比較社会学>が思い描かれていたように、「生きかたの構想」には、「近代のあとの時代」が重ねられています。

そのようにして、今の時代の生きかたではなく、それをのりこえてゆくところに生きかたが構想されており、そのために近代(および現代)の「外」に一度出るという「方法」(つまり「比較」という方法)が採用されています。

でも、この本を読むことで、しあわせになれるだとか、仕事ができるようになるとかいう「間違った期待」をしてはいけません。

もちろん、そのようになれることも「結果として」はあるのかもしれませんが、読んですぐになんらかの「効果」が生活にあらわれるようなものではありません。

ぼくにとっては20年以上も「読み続けている」本であり、ページをひらくたびに、「生きかた」、あるいは(さらに)存在そのものが問われるような本なのです。

真木悠介は「このように(あるいは、あのように)生きなさい」などと生きかたマニュアルを語るのではなく、その逆に、ぼくたちのなかに、じぶんたちの生きかたを照射する光の粒(あるいは生きかたに影を生む闇の粒)をいっぱいに投げこんでゆくのです。

だから、生きかたの「ハウツー」ではなく、ハウツーが語られる土台そのものを、解体し生成する機縁を与えてくれます。

とはいえ、ぼくにとって、あくまでもぼくにとってはということですが、この本は、読むだけで、ぼくの狭い視界をいっきにひろげてくれたのは確かなことです。

20代はじめのころ、東京新宿の埼京線プラットフォームに向かって歩きながら、この本のことばに導かれ、視界が光をうけるようにひらかれてゆくのを感じたことが、今でも実感として思いおこされます。

それから、西アフリカのシエラレオネに赴くときも、東ティモールに住むことになったときも、ぼくは、ちくま学芸文庫版の『気流の鳴る音』を携え、これら紛争が終結したばかりの国々の「世界」で生きてきたのでもあります。

日々のきりきりとする出来事のなかにあって、ときどきこの本を取り出しては、「日々」のはるか彼方を視野に収める『気流の鳴る音』の射程に支えられたことを、今でも思い出します。

またあるときは、この本に書かれている、ものごとの「見方」(たとえば「焦点をあわせない見方」)を意識して、シエラレオネや東ティモールでの支援活動に生かしたこともありました。

そしてここ香港でも、ぼくはたびたび、この本を手にとることになるわけです。

この本のよいところ(数限りなく、ページページにありますが)のひとつは、「明晰の罠」ということが、明確に意識され、仕込まれていることです。

この本に引用され、また真木悠介(見田宗介)の書くものを通じてときおり出てくる『ウパニシャッド』のつぎの一節が、「明晰の罠」ということを語ってくれていますので、ここで挙げておきたいと思います。

 無知に耽溺するものは
 あやめもわかぬ闇をゆく
 明知に自足するものは、しかし
 いっそうふかき闇をゆく

という『ウパニシャッド』の一節が思いおこされる。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年

明知に自足することの危険性をインディオの教えにも観つつ充全に認識しながら、このことが、この本ぜんたいに埋め込まれ、さらには生きかたの思想のなかに装填されることで、あらかじめ、明知の自足によって闇になげこまれるという「明晰の罠」への牽制がなされているのです。

だから、生きかたの構想とそれを解き放ってゆくことは、いつまでも続く旅となることでもあるのですが、だからといって不毛に陥るのではなく、むしろ、この「過程」そのもののなかに、「心のある道」(ドン・ファン)を観る思想が、この本の中心テーマのひとつでもあります。

そんな本を、ぼくは、「生きかたにかんする『必読書』の一冊」として挙げたいと思うところです。