思想家・武道家の内田樹が、「私の「ご縁」論」という文章(宗教学者である釈撤宗宛ての文章)で、「ご縁」についての自身の考えを書いている。
生きている間にすれ違うすべての人と知り合いになるわけではなくて、言葉をかわすのはそのうちのほんとうにわずかな人とだけですし、ましていっしょに仕事をするようになる人というのは、そのうちでもさらに希少な数ですから、そこにはなにかしらの「偏り」があるはずです。
私はその「偏り」のことを「ご縁」と呼んでいます。
内田樹・釈撤宗『いきなりはじめる仏教入門』(角川ソフィア文庫、2012年)
「偏り」というふうに考え、感覚することは興味深いところだと思いながら、この文章を読みながら、ぼくは、うんうんとうなずいてしまう。
生きている間に言葉をかわすのは「ほんとうにわずかな人だけ」だし、「いっしょに仕事をするようになる人」は「さらに希少な数」であることを、ぼくは思う。
もちろん、「数」は相対的なもので、人によって桁数の違いはあるだろうけれども、それでも、たとえば「すれ違うすべての人」の数との比という観点で見れば、人による違いは大差ないものであろう。
言葉をかわす人たちやいっしょに仕事をする人たちとうまくいかないこともあるけれど、このような「偏り」の視点から見ると、「ご縁」ということの不思議さとありがたさを感じるのである。
この文章につづけて、内田樹は、つぎのように書く。
若い頃は、人生は主体的に切り開くものであり、100%の自由と自己決定のみが私の主体性を基礎づけるものである、と単純に信じておりましたが、齢不惑を超えるあたりから、なかなかそういうものではなくて、「神の見えざる手」によって(「仏の手」?)、人生の分岐点のところどころに、私がまさにそのときに会うべき人がちゃんと私を待っている、ということが実感できるようになりました。…
内田樹・釈撤宗『いきなりはじめる仏教入門』(角川ソフィア文庫、2012年)
もっと「若い頃」にこの文章を読んでいたら、さらっと流してしまうかもしれないけれど、ぼく自身が齢不惑を超えるあたりにいるからだろうか、読みながら、つい立ち止まってしまう。
「私がまさにそのときに会うべき人がちゃんと私を待っている」
心をうつ言葉だ。
「会うべき人がちゃんと私を待っている」と思うのは「私」だから、「私」がじぶんの物語のなかで、そのような物語をつくりだしたのだと言うこともできる。
けれども、人生の分岐点のところどころに、ぼくたちは、そのように思うほかはない仕方で、「会うべき人」に出会うのだ。
と、書きながら、「出会う」という言い方は、「主体的に切り開く」ほうに軸足を置いている言い方かもしれないと思ってしまう。
だから、内田樹の書くように、「ぼくが…出会う」というより、「…会うべき人がちゃんと私を待っている」のだという感覚のほうが、ここでは、論理的だ。
それは、(主体的の反対としての)受動的な生きかたということではなく、主体的/受動的という「私」の小さい思考が解き放たれ、他者たちにひらかれた生きかたである。
「私がまさにそのときに会うべき人がちゃんと私を待っている」
それは、偏りとしての「ご縁」を、より鮮烈に感覚する契機だ。