NASA「InSight」による見事な火星着陸に触発され、また、ブログ「「火星」を起点に、現実として宇宙を視野に。- Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』。」を書いていたら、「宇宙」にかんすることをいろいろと思い出しました。
でも、これまでにいくどとなく「星空」を見てきたにもかかわらず、記憶の「表層」にのぼってくる「星空」の風景は、それほど多くはないものです。
つまり、星空と星空を見ている様子がイメージとして脳裏にあらわれ、またその星空を見上げていたときの夜の空気感さえも記憶にあがってくるような「とき」は、ぼくにとっては、ほとんど思い出せないものだったりします。
自然と思い起こすことのできる「星空」の風景は、いくつか、と、数えることのできるほどです。
そのことはなにも「星空」のせいであるというよりも、むしろ、それを見るぼく自身の心象や状況によるものだと思うのですが、それでも、じぶん自身の心象や状況をも圧倒してしまうほどに印象的な「星空」があることもたしかです。
30年近く前のことで思い起こすのは、いわゆる「星空」ではなく、望遠鏡で観た月と惑星です。
家の近くの、少し高台となっている公園に望遠鏡をはこび、適当なレンズを選んで、月や火星や木星へと焦点をあわせていきます。
火星や木星はあまり大きくは見えないから、結局、月にもどってきては、月表にひろがっているクレーターたちを眺めたのでした。
ぼくはクレーターと暗い宇宙空間の境界線を見やりながら、そのどこか厳かな雰囲気に、夜の空気がぴーんと張るように感知したものです。
そのときのことを、ぼくはまだ感覚とイメージとして覚えています。
人間的時間は先にすすんで、15年ほど前のこと、2000年代の半ばに、ぼくは東ティモールにいました。
当時、仕事で東ティモールに滞在しており、首都ディリと、(コーヒーの)プロジェクト地である山間部のレテフォホ群を行き来していました。
当時の首都ディリには信号もなく、高い建物もほとんどなく(あってもほとんどが2階建くらいで、確かもっとも高い建物も5階建てくらいであった)、またときどき停電がやってきたのでした。
レテフォホ群のほうはというと、電気は確か、夕方18時頃にやってきて、22時にはとまってしまう計画停電が敷かれていました。だから、レテフォホの村にいるときは、電気がとまってしまう22時にあわせて眠るようにし、そうすることで山間部の冷えも寝床でしのいでいました。
早めに寝床につくことと山間部の冷えのためか、夜中に、ぼくはトイレに行きたくなって、ときおり目が覚めました。寒さを感じるため、寝床を出ていくのは億劫になってしまうこともあり、とくにトイレが建物の後ろにつくられていて、そこにたどりつくためには、裏手のドアから一度「外」に出る必要があったことから、一層寝床を出ることがためらわれるのでした。
でも、その「とき」はぼくにとって、「祝福されたとき」でもあったのでした。一度「外」に出る必要があることから、外の新鮮な空気を吸うことができるとともに、天候や月明かりの状況によっては、天空に満天の星たちを見ることができたからです。コーヒー農園がいっぱいにひろがるレテフォホの夜空に、ほんとうにいっぱいの星たちがひろがっているのです。
都会ではふつう、夜空の暗黒のなかに星たちが散らばっているのですが、レテフォホでは、逆に、星たちのなかに暗闇があるほどに星たちが天空をうめつくしている。星雲がひろがり「星座」なんてまったくよみとることができないし、「流れ星」が、ひっきりなしに、流れてゆく。
流れ星を数えながら、明け方の寒さで「もうダメだ」と思いながらも、ぼくはぎりぎりまでそこに立ち尽くすのでした。
その星空の風景と凛とした空気感は、いまでもぼくの記憶の表層におとずれるものです。
NASA「InSight」の火星着陸をよろこび、火星、そして宇宙のほうへと気持ちを向けていたら、レテフォホとレテフォホの星空がやってきては、ぼくに呼びかけるのでした。