『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)の主人公コペル君(本田潤一)の精神的成長を支えた叔父さん(お母さんの弟)は、コペル君と彼の友人たち(水谷君と北見君)に、つぎのように語りかける。
だからねえ、コペル君、あたりまえのことというのが曲者(くせもの)なんだよ。わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね。こいつは、物理学に限ったことじゃあないけど……
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫、1982年)
「物理学」が出てくるのは、ちょうど「ニュートン」の話の文脈のなかで、叔父さんが語っているからである。ニュートンが、林檎が落ちるのを見て万有引力を思いついたのは「どうしてか」という、実のところ深い問いをめぐる会話である。
「林檎が落ちるのを見て万有引力を思いついた」ということは誰もが知るところでありながら、林檎が落ちることが、どうやって、「思いつき」に展開していったのかは、あまり考えられていないところだ。「林檎が落ちる」というあたりまえのことを、あたりまえで終わらせず、「どこまでも追っかけて考えてゆく」ことを通して大きなアイデアにぶつかったんだと、叔父さんはニュートンのことを語りながら、上のようなことばを、コペル君たちに伝えている。
「あたりまえのこと」を、「あたりまえでないもの」として視る視線。演劇の分野では、かつて、ブレヒトが「異化効果」と呼んだ方法。見田宗介が比較社会学の方法の核心としてとりだす「自明性の罠からの解放」。などなど。
それにしても、「あたりまえのこと」は、叔父さんが語るように、確かに「曲者(くせもの)」である。
時代につくられる「土俵」のうえでは「あたりまえのこと」は所与のものとしてあり、その「土俵」(ゲーム盤)で繰り広げられる「ゲーム」に、ぼくたちは投げ込まれている。
ぼくたちは、その「ゲーム」の仕方に集中する。たとえば、「情報」をどれだけ効率よく「処理」するのか(学校の試験で効率よく間違いなく「正解」を導き出す)、というように。
まれに「あたりまえのこと」を問うことをしようとすると、たとえば、「意味のないこと・無駄なこと」とか、「(将来やお金をかせぐことには)役に立たないこと」という注意書きの書かれた「看板」を、目の前につきつけられる。
「あたりまえのこと」をそれ以上問わず、あらかじめつくられた「土俵」のうえで生きてくるなかで、あたりまえを問う感性を縮減し、土俵のうえでのゲームに満足しない者たちは、いつしかこの世界のいろいろな色合いを捨てながら「なにもかもつまらない」という地点にたどりついたりする。
このようにして、人は、「あたりまえのこと」を問うことをしなくなってゆく。
「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組のホストであった故Fred Rogers(フレッド・ロジャース)は、現代社会が(狭義での)「information(情報)」ばかりに気をとられ、「wonder(おどろき」、つまりなんでもないことを不思議に思う感性を失ってしまっているのだと、警鐘を鳴らした。
「だからねえ、あたりまえのことというのが曲者(くせもの)なんだよ」と語る、コペル君の叔父さんの声が聞こえてくる。
叔父さんは、つづける。「わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね」、と。
「もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなこと」の地点は、ぼくたちの「成功」を保証するものではない。ニュートンのように(ニュートンほどまでとはいかなくても)「大きなアイデア」にぶつかれば、激動の現代社会のなかで、なんらかの「成功」を手にいれることができるかもしれない。
けれども、「わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆく」感性には、この「世界」が異なった仕方で開示される。そこから、はてしない「想像と思考」が生成し、あたりまえのこと・なんでもないことのなかに、不思議と楽しさと奇蹟を見出す。