年末年始ともなると、いろいろな「…すべき」「…あらねばならない」「…したほうがよい」などの言説が、周りやメディアなどで語られ、伝えられる。
年末には掃除をしなければならない、年末には一年を振り返らなければならない、年始には先一年の抱負や計画を持たなければならない、最後が肝心(だから…すべき)あるいは最初が肝心(だから…すべき)、などなど。
もちろん、集団(家族や組織やコミュニティなど)で生きているなかでは、年末に掃除をしたり、一年を一緒に振り返ったり、あるいは計画を立てたりする。それは大事なことであったりする。このような所作は、ある種の「共同体の知恵」として機能してきたような部分があると、ぼくは思う。
けれども、個人ということにおいては、自由に、じぶんにとって「適切な」やりかた・ありかたに開かれてよいのだと思う。
これだって「…のほうがよい」という言い方だけれども、AとBのどちらかがよい、というのではなく、AもBもよい、という言い方である。選択を迫る言い方ではなく、選択をひろげる言い方である。
年末に掃除をしてもよいし、しなくてもよい。年末に一年を振り返ってもよいし、振り返らなくてもよい。年始に抱負や計画を立ててもよいし、立てなくてもよい。
これらの「言葉」だけをひろってみると、ここで問われているのは、「時間・タイミング」と「行動」である。
「時間・タイミング」ということでは、ぼくは「いつだっていい」と思う。「年末年始にする」ということは、「年末年始以外ではしない」ともなりかねない。
掃除であれば、「いつも」である。じぶんにあったタイミングで、掃除(整理整頓)をする。じぶんとの対話のなかで、あるいは実感のなかで、なにか行き詰まってしまっているようなとき、なにかうまくいかないとき、なにかやる気がおきないときなど、周りを整理整頓してみる。といった具合に。
「行動」ということでは、じぶんの「うごきかた」でいい。たとえば、計画を立てるのが合う人もいれば、逆にその場・その時に物事をきりひらいてゆくのが合う人もいる。このように「人によって」という見方もあるし、同じ人であっても、時期によって、計画を立てるのがいいときもあれば、物事をその場・その時できりひらくのがいいときもある。
大切なのは、「じぶんの方法」を、試行錯誤しながら、見つけてゆくことである。試行錯誤なしで、すぐに見つかるかもしれない。でも、方法は変わらなくても、じぶんが変わってゆくこともある。「じぶん」も、「方法」も変わってゆく。絶対的な方法なんてことも、ない。「じぶん」という存在とありかた、じぶんの内面と外面で起きていること(と双方の連関)、これらへのまなざしが肝要なのだ。
だから、「すべき」「あらねばならない」という言葉で語られることは、「方法のひとつ」のオプションとして捉える。それが「いい・わるい」という反射的反応、あるいは「じぶんもそうすべき」という盲目の順応やプレッシャーで捉えるのではなく、あくまでも、方法のひとつとして、距離をおいて捉える。
そのうえで、方法のひとつとして、試行錯誤してみる。「それはないでしょ」という方法のなかに、じぶんにとって「最適」な方法が眠っているかもしれない。ぼくも、ひきつづき(これからもずっと)、試行錯誤と楽しい「気づき」のプロセスのなかにいる。