日本のJR東日本が(JR東日本はもちろん日本だけれど、ぼくは香港で書いているので「日本の」という形容詞を付ける)、東京駅で「エスカレーター歩行対策」を試行していることを、ネットのニュースで読む(乗りものニュース「危険なマナー『片側空け』は変わるか エスカレーター「歩かないで!」東京駅で対策)。
急いでいる人のためにエスカレーターの右側を空けることが、東京や東京周辺で「マナー」となっているなかで、エスカレーターの「片側空け」というマナーを変えようというのだ(この「マナー」がはたして、日本のどのくらいの地域に及んでいるかはぼくは知らないけれど)。こうして、エスカレーターでは歩かないこと、手すりにつかまること、左右2列で乗ることなどが、推奨されている。
消費者庁にデータも掲載されていて、東京消防庁管内では2013年までの3年間で、なんと、3865人がエスカレーターでの事故(ほとんどが点灯・転落)で救急搬送されているという。数値で見ると、問題がよりいっそう深刻さの容貌を見せる。
歩行対策によってエスカレーターを歩く人は減ったようだけれど、「意識を切り替えてもらう」ことの難しさを、JR東日本の担当者の方は語っている。
ニュースを読みながら、ここ香港での状況が、ぼくの頭のなかで交差してくる。
香港の「エスカレーターの状況」をかんたんに述べておくと、3つのことが挙げられる。
● エスカレーターの「スピードが速い」
● エスカレーターの「片側空け」は香港でもマナーとなっている(つまり、急いでいる人は片側を歩く)
● (東京と逆で)「左側」を空ける(つまり、急いでいる人は左側を歩く)
香港に長く住んできた今となっては慣れてしまったけれど、香港のエスカレーターの「スピード」は、圧倒的に速い。場所によっても(またメーカーによっても)異なるけれど、日本の1.5倍~2倍の速さはあるのではないかと思う。日本のエスカレーターに慣れていたぼくにとって、最初の頃、少し怖いくらいの速さであった。
でも「慣れ」というものはすごいもので、香港のエスカレーターの速さに慣れてしまうと、今度は日本のエスカレーターの遅さにイライラしてしまったこともある。とにもかくにも、香港のエスカレーターは速い。
その速いエスカレーターであっても、香港の「速さ」をカバーしきれないようで、「片側空け」は香港でもマナーとなっている。そして上述のように、東京とは逆で、「左側」を空ける。日本に戻ったときに、ぼくはつい「左側」を空けてしまうこともあったし、逆に、香港に戻ってきて、つい「右側」を空けてしまうこともあった。
はたして、左側や右側を覚えているのは、意識なのか、身体なのか、あるいはそのあわいのような心身なのか。
いずれにしろ、速いスピードで動くエスカレーターの、空いた片側を、急いでいる人は、また空いた片側に押し出された人は、歩くことになる。下りのときは、歩くというよりも、早歩きとなるといったほうが正確である。
ぼくも以前は、急いでいるときや列ができているときは空いている片側を歩いたし、今でも、人がいっぱいのときは、空いている片側を歩いたりする。空いているときなどは歩かないし、また歩くときにも、せめて、手すりに手をかけながら歩くようにはしている。
さらに、香港では、しばしばエスカレーターが不調を起こし、ショッピングモールなどのエスカレーターでは、2列(上がりと下り)のエスカレーターの一方を止めて修理にかかり、もう一方のエスカレーターも止めて「歩く」ために開放する。つまり、止まったエスカレーターを、上がる人と下る人が共有するのだ。段差があるから、上がるのは大変だし、下るのは気をつけなければならない。この状況が結構頻繁に発生することになる。
香港と日本との共通性としてくくりだすのであれば(もちろん個人差は多分にあるし一概には言えることではないことは承知のうえで言えば)、「急ぐ」ということが挙げられる。けれども、その内実は、香港では「速さ」、日本では「時間の正確性」というところに重心を置いた「急ぐ」である。
そんなことをぼくは考える。
それにしても、エスカレーターの利用の仕方を、啓蒙的に(たとえばポスターなどのメッセージで)変えることは、やはりむずかしい。
香港のエスカレーターを利用しながら、ぼくの意識と利用の仕方が少しなりとも変化をしてきたのは、じぶんをあるいは周りをより客観的に見る、ということによってであった。
エスカレーターの空いている片側を歩くことでどれだけの「時間」を短縮できるか、ということを実感したり、あるいは観察してみると、使うエネルギーの割にはそれほどの短縮効果がないことを、ぼくはあるときに客観的に考えた。あるいは、状況を見ながら、やはり2列でエスカレーターを利用したほうが、総体的にはエスカレーターの運搬能力は高いことがわかる。
ときには、「エスカレーターの利用の仕方」ということを超えたところ、じぶんの生きかたを見直してゆく過程で、たとえば心に「余裕」をもちたいと思ったこともあった。駅では、階段を使うことで少しでも身体を使おうと心がけることもある。そのような経験のなかで、ぼくの意識や行動は多少なりとも変わってきたように、ぼくは思う。
「エスカレーターの利用」の意識を変えるためには、「エスカレーターの利用」を超えたところに意識や行動が向かうことが、ぼくにとっては有効であったのだ。それは大きく言えば、生きかたを変えてゆくことでもある。