「クリスマス休戦」(1914年)のこと。- ぼくの「経験」と重ねあわせながら考えること。 / by Jun Nakajima

クリスマス休戦(Christmas Truce)。第一次世界大戦(1914-1918)中の1914年12月24日から12月25日、西部戦線でみられた一時的停戦。なんらかの休戦協定などによる停戦ではなく、各地の最前線で、自然発生的に生まれた停戦である。停戦中、敵対していたドイツとイギリスの兵士たちが、共に歌を歌ったり、食べ物などをシェアしたりして、クリスマスを祝ったといわれている。

もちろん、実際には場所によっていろいろな状況ーよい状況も、悪い状況もーが生まれていたし、また1914年以降は上層部の命令によって「クリスマス休戦」は禁止されたようだが、それにしても、このようなことが戦争という極限の状況において起こったという事実に、ぼくたちは心を動かされ、また考えさせられることになる。

どのようにして、どのような条件で、このような「休戦」が可能であったのか?

「クリスマス休戦」に直接的に焦点をあてながら研究もなされてきたようだが、ここではその詳細に入ってゆくほどの知識をぼくは持たないし、思考を深めてもいない。けれども、100年以上前のこの「クリスマス休戦」と、もしかしたらどこか通底しているような状況に、ぼくはかつて東ティモールで遭遇した経験を重ねながら考えている。


2002年にようやく独立をはたした東ティモール。国連をはじめ、国際的な支援のもと、独立後平和な状況にあった東ティモールは、2006年半ば、ディリ騒乱を発端に、国内情勢が不安定化し、国内避難民を生じる事態へと至った。

銃撃戦を逃れ、騒乱発生翌日にインドネシアを経由して日本に戻ったぼくは、治安が若干安定した段階で、ふたたび東ティモールに戻った。2006年9月頃のことであった。東ティモールに戻り、関わっていたコーヒー事業をふたたび軌道にのせ、2006年末、ようやく一息つけるところとなった。

東ティモールに戻って事業をすすめているあいだ、情勢はひきつづき不安定で、ディリ市内では住民の一部が国内避難民として家に帰ることができず、あちらこちらで争いが起きていた。事業は一息ついたところであったけれど、その意味では、緊張を解くことができないままに、ぼくは日々を過ごしていた。

年末はいつもであれば所用で日本に戻っている時期だが、その年はクリスマスから年末年始にかけて、ぼくはディリに滞在することになっていた。

そのようにして迎えたクリスマス。ディリ市内の争いが一時的に沈静化し、「しずかな夜」が訪れる。

東ティモールはカトリック教徒が大半であり、そんな人たちにとっては、クリスマスは大切なときだ。たぶん、そのような事情もあったのだろう。ディリ市内に「しずかな夜」が訪れたのであった。

今でもぼくの記憶のなかには、そのときに感じた安堵感(「争いは止まる(止めることができる)」)とともに、「しずかな夜」の空気感がのこっている。

このような記憶のなかで、「クリスマス休戦」という歴史的出来事は、ぼくのこの経験に重ねられるのである。


「クリスマス休戦」には、「humanity(ヒューマニティ)」という言葉が添えられることもある。想像でしかないけれど、たしかにそのように語られるような状況もあったのだろう(あるいは、少なくとも、そこに「希望」を見出したいのだということもある)。

でも、「人間性」ということでぼくを捉えるのは、「クリスマス」という、いわば「物語・ストーリー」を持ちつづけている「人間」という存在についてである。

人間は、「物語・ストーリー」(あるいは、幻想)という仕方で、いろいろなことを「信じて」いる。そのような、人間の固有性が、戦争や争いのなかでも、生きている。もちろん、そのような「物語・ストーリー」が極端な仕方で信じられて、いろいろと非人間的な行為がなされたりすることがあるのだけれど、肝要なことは、それでも、共通する「物語・ストーリー」を持っていることである。さらには、「物語・ストーリー」は変えてゆくことができることである。

「物語・ストーリー」については、「ホモ・サピエンス」を論じてきた歴史学者のYuval Noah Harariも、キー概念として語っている。あるいは、これまでにも「共同幻想」などとして、いろいろと語られてきた事象である。

人間は、「物語・ストーリー」の外部に出ることはできない。「物語・ストーリー」なしでは生きていけない。でも、共通する「物語・ストーリー」をもって共生し、協力することができる。

それは「希望(hope)」であると、ぼくは思う。