神経回路の「絶望的な混線」(三木成夫)。- 「内臓感覚のいちばん麻痺しているのが、ホモ・サピエンス」ということ。 / by Jun Nakajima


ぼくたちの「身体」はぼくたちに日々、瞬間瞬間に、さまざまな「シグナル」を送りつづけている。

そうして送られる「シグナル」を、いわば「レシーバー」でキャッチし、じぶんは「何が必要だ」「何がしたい」ということへに変換する。

でも、むずかしいのは、この「変換」である。


人間の「内臓系」(からだの内側に蔵されている“はらわた”の部分。これに対し「体壁系」は手足や脳、目や耳などの感覚器官など、からだの外側の壁を造っている部分)についての講演会で、解剖学者の三木成夫が挙げた事例が、そのことを端的に教えてくれる。内臓の感覚として、最初に挙げられたのは「膀胱感覚」で、三木自身の子どもの観察を交えた事例である。

少し長くなるけれど、この「観察された事例」、それはだれもが(自身として、あるいは子どもに対応する者として)体験し、その体験をいくぶんか記憶しているであろう事例を共有しておくことで、内臓系のシグナルを感受することの「複雑さ」を理解していただけるだろう。少なくともぼくの理解は、一気にすすんだ。



 ちょうど、あのオシメが取れた頃のことです……。子どもが一人で遊んでいる。その遊んでいる時ーたとえば積み木をしたり、絵本を観たりしているその一連の動作のなかで、なにか異質な動きが、ふっと入る……。腰のあたりが……(笑声)。これを見た時ありゃいったいなんだ……(笑声)。
 ところが、しばらくしたら隣の部屋から、母親の声が聞こえてくる……「オシッコでしょう?」という、まだのんびりした声です。子どもはしかし見向きもしない……。私はその時、あれがサインかと初めて知った(笑声)。
 そこでなんとなく見てますと、それは、ある一定の間隔を置いてやってくる。明らかに異質な動きです。…ちょうど“陣痛”と同じで、だんだん間隔が狭まってくる(笑声)。そのうちに、今度は母親の声が少し大きくなって「早く行ってらっしゃい」とやるわけです。子どもは、いぜんとして見向きもしない。
 …そうこうしているうちに…動きがかなり激しくなってくる(笑声)。…そのうちに、だんだんむずかるんですね……。ヤレおんぶしろとか、肩ぐるましろとか……。こりゃうるさいことになるゾと思って考えてますと、案の定、隣の声も「ハヤク行きなさイっ」ってグッと切迫度が加わってくる(笑声)。

『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)


母親にしてみれば「それなりに切実な問題」であろうとしながら、子どもにとってみれば、これは「まったく関係ない」こと、つまり「トイレという感覚が浮かばない」のだと、三木成夫は冷静に観察をしている。

三木成夫はさらっと述べているけれど、「トイレという感覚が浮かばない」ということは、ここで語られていることの核心である。ぼくは、単純に、子どもは「遊び」などに夢中なのだと思っていたのだけれど、その見方は「トイレに行くこと」がほぼ無意識的に日常に組み込まれた者たちが投影している見方のようだ。

「トイレという感覚が浮かばない」子どもは、トイレに行こうとする気配を見せず、拒否を継続してゆく。じぶんの体験か、あるいは他者(子ども)の様子なのか、どこか既視感のわく状況描写である。


 私は子どもを横で見てまして、いろんなことを教わりましたが、これだけは、ほんとうになるほどなあ……と思った。そこで、今度はいよいよ「それオシッコが出るョー」といって、膀胱の真上あたりをギュッと押さえてやる。そしたら、なるほどそれは感覚として、かなり強く響くのでしょうが、本人は、それが自分の内部から出たものだとは思わないから「イヤダ」といって手を払って、行こうとはしない。…
 …しまいにうるさいから「……もっと向こうで遊んでおいで、お父さん、お仕事すんだら一緒に遊んであげる」。すると、いちおうは向こうへ行きかけるのですが、もうその頃は地だんだ踏んで、とうとう部屋をあっちこっち走り回る……(笑声)。こうなったら母親も真剣です「ハヤクシナサイッ!」さすがに迫力がある。「イヤ、イカナイ」。もうまるで真剣勝負です。…
 …それで、最後のとどめは、もうギリギリの瞬間、あの天の啓示のように「オシッコー!」(笑声)、それはもう心の底から叫んで一目散に駆って行ったーその早かったこと……(笑声)。ともかくも皆さん、人間の内臓感覚とはいかなるものか、全部ここに尽くされている、と私は思います。…

『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)


「人間の内臓感覚とはいかなるものか、全部ここに尽くされている」と、三木成夫は語っている。すべてが、ここに尽くされている、と。

ここに「すべてが…?」と思いながら、人は、実際には、身体の(ここでは内臓系の)シグナルを正確に受けて行動するということは、思っている以上にできていないのではないか、という考えが、ぼくのなかに浮かぶのである。

三木成夫の言い方を借りれば、「麻痺している」のである。

三木成夫は、少し極端な言い方で、講演会の徴収に問いかけている。じぶんの体のなかにタンパク質がどれだけ足りないのか、動物タンパクか植物タンパクか、さらには脂肪がどれだけ不足しているか、といったようなことを、「ほんとうに素直に感受できる人間」がいたら、挙手してください、と。

そんな人はおそらく一人もいないはずであり、なぜなら「麻痺している」のだから、と三木成夫は語る。そのことが、三木の結論のひとつである。つまり、内臓感覚のいちばん麻痺しているのが、ホモ・サピエンスであるということである。


なお、三木は講演がすすんだところで、このことを、現代の神経学の用語を借りて、「神経回路を、どこかで取り違える」のだと述べている。「なにしろ、私どもの脳のなかには、それこそ天文学的な数の回路が、乱麻のごとく張りめぐらされているのですから……。絶望的な混線が起きる」のだと。

そして、上述の例をふたたびとりあげながら、膀胱の不快な感覚がひとつの回線をつたって、大脳皮質にたどりつくまでに、これが引き金で、いろいろな雑音(親のヒステリー声やお尻ピンや諸々の「不快」)が割り込んできては「正規の回路」をふさぎ、混戦がきわまってゆくのだと、三木成夫はつづける。これは「ほんとうに深刻な問題」であるのだと。

「膀胱感覚」は内臓感覚のうちのあくまでもひとつであり、胃袋の感覚などへのひろがりを考えると、「内臓感覚のいちばん麻痺している、ホモ・サピエンス」にとって、ほんとうに深刻な問題である。

このような「麻痺」、つまり神経回路の「絶望的な混線」から生じている問題は、じぶんの日々の「よき生(well-being)」をはじめ、他者とのかかわりを含めて、多岐にわたっているのではないかと、ぼくは見ている。でも、それが、人間の生に「ドラマ」を投げ込むものでもあるのだと、ぼくは思う。


ここから「どこへ」行くのか、と問う人がいるかもしれない。まずは認識からだと、ぼくは思う。生命を知ること。ホモ・サピエンスを知ること。「じぶん」を知ること。完全に知ることは無理でも、可能な地平まで。

ところで、ここで取りあげた箇所は、著書『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)の「最初」の章に収められており、またその元となった講演会の「最初」に触れられた話でもある。「最初」から、こんな調子である。

それは、まるで、ビートルズ(The Beatles)の名盤『A Hard Day’s Night』が、最初の曲「A Hard Day’s Night」の、あの短く高らかに鳴り響くギター音で幕が開けられるように、はじまっている。最初から聴く者(読む者)の頭のなかに、「革新(あるいは、核心)」を打ちこむのだ。