香港では、クリスマスを過ぎたころから、「香港の冬」の寒さがようやく訪れている。クリスマスのころは昼間は半袖で過ごすほどであったけれど、今は結構着込んで、部屋ではヒーターを稼働させている。
きりっとした空気がながれる2018年大晦日、香港の空はひきつづき、しずかな雲が織りなす風景をみせている(ブログ「香港の「空」を見ながら。- 香港の、陽光としずかな雲の織りなす風景。」)。
こんな日には、日本にいれば「年越し蕎麦」が選択肢のひとつだろうけれど、海外に長く住んでいると、選択肢はいろいろだ。
香港に来るまでは知らなかったのだけれど、香港では「うどん」(烏冬)はごくごく日常で食されている。でも、「蕎麦」はどうしてか、浸透していかない。うどんはいろいろなレストランのメニューに組み込まれ、うどん専門店も人気だけれど、蕎麦はそのようなわけにはいかないのだ。
なぜなのかは、よくわらかない。香港の人たちともそんなことを話したことがあったけれど、その「理由」までは深く入り込むこともなく、理由は定かではない。
蕎麦の独特の味があわないのか、あるいはとてもおいしい蕎麦にありつけないからなのか。ひとつぼくが思うのは、麺と具やスープ(あるいは、たれ)とがつくりだす世界という視点で、うどんのほうが、多様性をひらいているからではないかということ。つまり、うどんは、どんな具やスープやたれとも、大体において、組み合わさることができるから、ということである。
香港の食堂で、朝食に提供されているマカロニスープなんかを見ていると、そう思ったりするのだ。香港という、いろいろなフュージョン料理を花開かせる場所は、うどんのように、多様な組み合わせを実現させてくれる素材がうけいれやすいのではないかと思ったりするのである。
あくまでも、ぼくの仮説のひとつである。
ぼくはどちらかというと「蕎麦派」なので、香港でおいしい蕎麦(立ち食い蕎麦でもよいのだけれど)がないことは少し残念に思ってきたのだけれど、ここは香港、その他いろいろな麺類を楽しむことができるわけだし、現地では現地のものがやはりおいしい。
香港にいて無理してまで年越し蕎麦を食べるつもりもなく、でも、外は結構寒く、年越し蕎麦が暖かいスープ麺を連想させることから、「魚蛋河紛」の麵を大晦日に食べることにした。
「魚蛋河紛」は、英語ではFishball Noodleが近い。麺はきしめんのような麺で、具として、つみれ(魚団子)やはんぺんなどがつく。
香港では相席が日常であり、大きなテーブルに相席ですわり、香港の人たちに混じって食べる。食べながら、すっかり、心身が暖かくなる。香港各地に専門店があって、有名店はいつも人が並ぶ。今日も、早めに行って麺を楽しみ、食べ終わってお店から出ると、外は行列であった。
香港のスピーディーな速さのなか、わいわいがやがやとエネルギーのみなぎる店内で、いつものように「魚蛋河紛」を楽しみ、店をあとにしてから、ぼくは、「香港」の風景を、なぜだかどこか遠くから見ているような、懐かしく見ているような、そんなふうに感じるのであった。
なにはともあれ、香港での一年が、ふたたび過ぎようとしている。