暖かい陽気のクリスマスのあと、ようやく、香港に「冬」がやってきたようだ。陽光は暖かさをふりそそいでいるけれど、ときおり吹く風が冬の冷たさをはこんでくる。
道をゆく人のなかには、半袖であったり、サンダルを履いている人もいるから、いつもながら、なんとも捉えどころのない冬ではあるのだけれど、やはり季節はうつりかわりを見せている。
香港の街は大気の問題からどこかうっすらと曇りがかったようでいるのだけれど、香港の「空」では、暖かな陽光としずかに動きゆく雲たちのコラボレーションが鮮やかにきらめきをつくりだしている。
ふーっと、心がもちあがるように、すいこまれる。
2018年も終わろうとしているなか、でも、そんなことを気にするふうでもなく、香港の「空」は、この地球の美しさをたたえている。
<人間の生きることの歓び>は、ただ、このような経験のうちにあったりする。そんなことを、ぼくは思い起こす。
「発展途上国の開発・発展と国際協力」を研究していたころ、「人間のベーシックニーズ」(住まいや食べ物や水など)ということにふれ、「ニーズ」ということを正面から考えていた。そのようなとき、見田宗介の名著『現代社会の理論』に出会い、その本のなかで語られる<人間の生きることの歓び>に、ぼくはすっかり惹かれて、いくどもいくども読み返すことになった。
…生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。…
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
「ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受」する。
「必要(ニーズ)」よりも歓喜と欲望は本原的であると、見田宗介は書いている。だからといって「必要」をおろそかにしていいということではないけれど、「生きる」ということが、「最も単純な歓びの源泉」であることの経験と享受と理解は、決定的なものであるように、ぼくは思う。
この源泉は、いま、そしてこれからの時代を、一歩、一歩、あゆんでゆくための、たしかな土台である。