民俗学者・宮本常一の「ノート」。- <旅の方法としての学問>(真木悠介)。 / by Jun Nakajima

勉強ができる人やビジネスで活躍している人の「ノート術」や「メモの取り方」などが書籍化されたり、インタビューなどの記事で取り上げられたりする。

このようなライフハック的な方法はおもしろいものである。

さらに気になったりするのが、いわば「深い仕事」をしてきた人たちの、その「ノート」である。

例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチのノートは公開されていて興味深いものである。

 

社会学者の真木悠介は、名前の姓が近いことから、シンポジウムなどで隣席となる民俗学者の宮本常一の「ノート」の話を書いている(真木悠介『旅のノートから』岩波書店)。

ノートには「野帖」と太い字で書かれていて、旅先で出会われたことを書き込んでいるという。

真木悠介は文化人類学の「field note」と同じようなもので、「野帖」はこの英語の日本語訳であったかもしれないと思ったりする。

民俗学を深めていった宮本常一の、<学問の方法としての旅>が、そのなかにつめられている。

真木悠介は、シンポジウムをともにしながら、そこに<旅の方法としての学問>という見方、そしてそのような生き方を提示している。

 

 宮本常一氏の「野帖」には、国際的なシンポジウムの報告もまた旅の記憶と同じ筆致で記入されていた。ベトナムの小さい村々に夜がどのような仕方でやって来るか。等々。宮本氏にとって、シンポジウムの対話も旅であり、読書もまた旅のかたちであったはずだ。
 …<旅の方法としての学問>というものもある。学問は旅の一形態である。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店, 1994年

 

「野帖」は、学問(民俗学)のための旅の記録に限らず、そのような狭い世界をつきやぶるようにして、「生きるということの旅」の記録として、宮本常一にとってあった。

 

思えば、アジアやニュージーランドの「旅」を通じて、ぼくがようやく「生きる」ということ、そして「学ぶ」ということに正面か立ち向かっていったとき、ぼくの「ノート」は、すべてが「同じ筆致」で記載されていた。

香港やベトナムなどの旅先で書いた日記、国際的なシンポジウム(経済学者アマルティア・センなど)を聞きにいったときのメモ、ときおりの日記、読書からの抜粋などが、ひとつのノートにおさめられていた。

学ぶことも、読書も、日々の考えや悩みも、それらが「生きるということの旅のノート」ともいうべきノートにつまっている。

 

そのようにしてノートに書きつけていたのは昔のことで、最近は、もっぱら、スマートフォンやパソコンにノートしている。

手書きのよさは捨てきれないから、電子ペン(Apple Pencil)をときおり使うなどしている。

生きるうえでの「マテリアル」はなるべくスリム化したいと思いながらそうしているけれど、一方で「生きるということの旅のノート」を、ボールペンで書きつけていきたいという欲望も捨てきれずにいて、ときおり、ボールペンを手に、メモを書いたりしている。