「心を込める」という教えにひらかれてゆく道。- 新津春子『世界一清潔な空港の清掃人』。 / by Jun Nakajima

NHKの番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で「清掃のプロ」として取り上げられ、著書『世界一清潔な空港の清掃人』(毎日新聞出版、2015年)の著者でもある、「清掃の職人」新津春子。

日本空港テクノ株式会社社員として、羽田空港における清掃の実技指導者である。

上記番組のディレクター築山卓観に「仕事の流儀」をたずねられて、新津春子は次のように応えている。

 

「心を込める、ということです。心とは、自分の優しい気持ちですね。清掃をするものや、それを使う人を思いやる気持ちです。心を込めないと本当の意味で、きれいにできないんですね。そのものや使う人のためにどこまでできるかを、常に考えて清掃しています。心を込めればいろんなことも思いつくし、自分の気持ちのやすらぎができると、人にも幸せを与えられると思うのね」

新津春子『世界一清潔な空港の清掃人』毎日新聞出版、2015年

 

仕事の流儀として、「心を込める」と応える清掃職人の新津春子だが、そこにはドラマがある。

新津春子は、17歳のとき、生まれ育った中国の瀋陽から、両親と姉と弟とともに日本に渡る。

父は中国残留日本人孤児、母が中国人。

1987年にようやく日本に渡ったのちも、生活の厳しさのなか、日本語ができなくてもできる清掃の仕事に就く。

若いときは清掃の技術を身につけることに一生懸命で、仕事も技術の勉強も熱心であった新津春子。

そんな新津春子の仕事を技術だけではないレベルに引き上げたのは、上司の鈴木優常務との出会いであった。

鈴木常務は、新津春子を褒めることはせず、「もっと心を込めなさい」と言うばかりであったという。

仕事熱心でがんばっている新津春子は、何が足りないのかわからず、また「認められない」苦しさがのしかかる。

 

あるとき、その鈴木常務にすすめられて、新津春子は「全国ビルクリーニング技能競技会」に出場することになる。

そこで絶対に一位で予選会を突破できると思っていたところ、全国大会への切符を手にしたが、一位ではなく、二位で終わってしまう。

自分に何が足りないのかわからないままに、しかし、そんな折、鈴木常務の言葉に導かれながら、新津春子は気づきと変化を見つけてゆくことになる。

 

 あるとき、鈴木常務に、「心に余裕がなければいい清掃はできませんよ」と言われました。自分に余裕がないと、他人にも優しくなれないでしょう、と。
 そんなころ、空港のロビーで、親の手をすり抜けて床をハイハイする赤ちゃんを見かけたときに、はっとしたのです。今手にしているモップで清掃していいのだろうか?
 それまでは、私は自分のために仕事をしていました。なにしろたたかう相手が自分でしたから。それが、使う人のためにもっときれいな場所にしたいという気持ちに変わったのです。一見きれいになったように見えても、モップ自体に雑菌が残っていたかもしれない。見えないところに汚れが残っているかもしれない。「かもしれない」「本当に大丈夫?」と、使う人の気持ちになってもう一度見直すようになったのです。

新津春子『世界一清潔な空港の清掃人』毎日新聞出版、2015年

 

その後、鈴木常務との猛特訓を受けて参加した全国競技会では、見事に「優勝」を勝ち取ることになる。

優勝を鈴木常務に報告した際の、鈴木常務の言葉に、新津春子は、今でも当時を思い出しながら、心を深く動かされるようだ。

鈴木常務は、新津春子に次のように語る。

 

「優勝するのはわかっていましたよ。…それだけがんばっていることは知っていましたから」、と(前掲書)。

 

この言葉に、「やっと認められた」という思いを新津春子は覚える。

鈴木常務の言葉に「認められた」と感じたのだけれども、それは、ほんとうは(心の深いところでは)、新津春子の<自分による自分に対する承認>であったように、ぼくには感じられる。

それからというもの、「周り」が変化しはじめてくる。

空港を清掃する新津春子に、お客様が「ありがとう」とか「ご苦労様」という声をかけることが増えていったという。

このプロセスのうちに、新津春子は「心を込める」という、手にとってみることのできないことの本質をつかんでゆく。

こうして、冒頭の新津春子の「仕事の流儀」は、語られる。

 

新津春子の著書『世界一清潔な空港の清掃人』(毎日新聞出版)は、「仕事」から「生き方」にいたるまで、さまざまなヒントでいっぱいである。

それらを読んでいると、なぜ「新津春子」という清掃職人が生まれたのかが、文章から、そしてその行間からも、伝わってくるようだ。

 

そんな新津春子にとって、空港の清掃のなかで「いちばん楽しい仕事のひとつ」は、子供たちが窓ガラスにづけていった小さな手の跡を拭き取ることであるかもしれないと、彼女は言う。

空港に来た子供たちははしゃいでいて、ロビーの床に尻もちをついたり、展望デッキの窓ガラスにぺたぺたと手をついたりする。

子供たちが楽しんでいる姿だけでなく、母親が「その場所が清潔だと感じて」子供たちを自由にさせていることを感じて、嬉しくなるという。

そのように感じる心が、窓ガラスにつけられた「小さな手の跡」にいらだつのではなく、そこに「いちばん楽しい仕事のひとつ」を新津春子に感じさせている。

そしてさらに、大人には見えない手すりの下側やソファの脚などにも、お構いなしにさわる子供たちを「どこを清掃すべきかを教えてくれる」存在であると新津春子が語るとき、そこには、「心を込める」という目に見えないことが、まるで、目に見えるような仕方で目の前に現れているように、ぼくは感じてしまうのである。

 

いつか、羽田空港で新津春子氏にばったりとお会いすることがあれば、ぼくは、迷わず、声をかけさせてもらうと思う。

そして、迷わずに、御礼の言葉を伝えさせていただくと思う。

さらには、ここ香港でも(そして他のところでも)、清掃をしてくれている人たちには、これからも、できる範囲で、御礼を伝えたいと、ぼくは思う。