「会社」ということも、<物語>として見ていくこと、また実際に<物語>として関わっていくことが、より深みをつくっていくものであると、ぼくはかんがえる。
平川克美は著書『一回半ひねりの働き方 反戦略的ビジネスのすすめ』(角川新書)のなかで、アメリカの戦略的な思考にもとづく企業論・経営論などにはなくて、かつての日本の企業文化のなかにあったものとして、この会社の「物語性」を挙げている。
平川克美は「物語性」の定義として、第1に、物語それ自体で自己完結しているひとつの世界であること、また第2に、現実とは異なる物語固有の時間が流れていることにふれている。
第2のことについては、例えば、利潤追求という共通の目的に向かう会社という考え方には、均質的で無機的な時間をつくっていくという機能主義的な側面があるだけで、そこには「固有の時間」がないとされている。
利潤追求においては「結果」が重要であるのに対し、「固有の時間」はプロセスのなかにしかない、という見方である。
自身も経営者であり続けてきた平川克美は、「会社をつくること」とは、生活のための手段の獲得ではなく、「わたしたち自身の世界を作ってゆくこと」であり、また会社がひとつの「幻想共同体」をつくっていくことであるということを学んできたのだと語る。
この「固有の時間」ということは、とても大切なことであるように思われる。
それは、時計の時間のように無機質な時間に還元されるのではなく、そこに生きる人たちがともに共有する、時計的な時間に還元できない時間だ。
ぼくたちが「生きる」ということの本質も、ただ単に、時計の時間が動いていくなかでの出来事の生起ではなく、固有の<他者たち>との間の<固有の時間>の共有であるように思われる。
このように、会社を「複数の人間が何らかの幻想を共有して経済活動をしてゆくひとつの「生成」」として捉えるとして、では、どのようにその生成の物語が語られるのかということへ、平川克美は問いをうつしていく。
そして、会社の物語も、人それぞれの物語と同様の困難さを抱えているとし、そしてデータの積み重ねでは物語にはならないとしながら、「物語」という形式で語ることを人に選ばせる理由を、次のように書いている。
…その人間がひとつの行為をどのような理由によって選択し(あるいはその選択によって何を断念し)、そのときにどのような意図、決意、逡巡があり、その行為がどのようなプロセスを経てひとつの結果になったのか、という「時間」の秘密を共有する他はないはずです。つまり、ともに苦労し、ともに喜びを分かつという「経験」に出逢う必要がある。
…
会社についても事情は同じです。ひとつの会社が登記され、仲間が集い、商品を作り、顧客と関係を結び、取引が行われ、仲間が増え、組織が生まれ、成長してゆくというプロセスも、「物語」という形式でしか語りえないものがあるというわけです。
平川克美『一回半ひねりの働き方 反戦略的ビジネスのすすめ』角川新書
このように、会社の物語は、その生成のプロセスに意味をあたえてゆくものである。
そのようにして、物語は語られる。
さらに、平川克美は、会社生成の「物語」がどのように紡ぎ出されて、何を汲み取ることができるのかという問いを立てる。
平川克美は、会社生成の「物語」とは、会社の履歴をつらねる調査レポートのようなもの(「メンバーたちが何を成し遂げて、現在どのような商品と顧客を持ち、売り上げがいくらで、資産がどのくらいあり…」)ではなく、また回顧譚でもないとしながら、次のように書いている。
自分たちがどのようにして会社にかかわったのか、それが自分たちをどのように変えていったのか、あるいは自分にとって会社とは何であり、今それが何を意味しているのか、といった自己言及の物語こそ、わたしが物語と呼んでいるものなのです。その自己言及の束こそが、会社の物語であるわけです。
…
…経営者には自らの「想い」と、今ここにある結果としての「会社の姿」との間の「ズレ」についての物語を語りたいという欲求があり、それこそが会社の哲学として、会社の従業員を会社へと向かわせるモチベーションを駆動するものであると言えるでしょう。
平川克美『一回半ひねりの働き方 反戦略的ビジネスのすすめ』角川新書
この「ズレ」への視点を、ぼくはこの本を通して、平川克美から教えられた。
このような会社の「物語」が必要である理由を、「わたしたち」個人と「わたしたちの会社」の相互の「ズレ」がこれから先どのように運動してゆくのか知りたくなる、ということにあると、平川克美は書いている。
この視点は、「会社」だけの視点ではなく、個人の物語と会社の物語の相互作用をひきうけながら、そこに「働く」ということの本質をみてとる視点に支えられている(本書にて「なぜ働く」のかという、答えのない問いに差し迫っている)。
「個人の物語」と「会社の物語」の相互作用については、ひきつづき、ぼくも視点をとりこみながら、見ていきたいところである。