「積読本」については、それ自体を否定的に語る人たちもいるけれど、最近ではそのメリットを語る人たちも多いように見受けられる。
そのように見受けられるのは、ただ単に、じぶんが「メリット」を見たいだけなのかもしれない。
「買っても読まない」という声がどこからか聞こえて、これまでにも「積読・積読本」に罪悪感を感じることもあったけれども、根本的には、ぼくは「積読・積読本」のメリットを信じている。
信じているから、そのような仕方で、現実が現れてくる。
「積読・積読本」のメリットを挙げるとすれば、次のようになる。
(1)本との<関係性>の構築
本を購入するということで、ぼくたちは、その本と<関係性>を構築することになる。
世界を旅していてある人に出会い、声をかけようか迷ったときに、声を掛けそびれてしまうと、ぼくたちはそこに関係を築くことができないように、購入することでぼくたちは<関係性>を構築できる。
もちろん、今の時代、ネット検索で本は見つけることができるのだけれど、ある本に出会ってから後年になると、そのタイトルや著者名がなかなか思い出せなかったりする。
これだけ「情報」であふれる世界において、出会いの記憶は遠のきがちだ。
購入の「Wishリスト」に入れておくというのもひとつだけれど、Wishリストもたまりはじめると、昔のリストが遠のいていく。
また、読み放題で読むことも手のひとつであるけれど、条件や個々の嗜好もある。
さらに、アマゾンKindleなどでは「サンプル」をダウンロードしておくこともひとつであり、ぼくも利用するけれど、ぼくと本との<関係性>ということで言えば、質的な違いがそこには感じられる。
だから、「この本こそは…」と思った本は、やはり手に入れておきたい。
(2)本の<存在感>に導かれる
「この本こそは…」と思った「積読本」は、そこに<存在感>をたたえている。
本の詳細を読まず、その<存在感>(タイトルや著者名や装丁などのつくりだす存在感)だけでも、日々の思考やアイデアや感情を刺激してくれる。
その刺激は、本の内容にはあまり関係ないこともあるかもしれないけれど、なんらかの方向に、ぼくたちの生を導いていったりする。
(3)本はいつでも<スタンバイ>している
「積読本」は、いつでも、ぼくたちのために<スタンバイ>している。
準備を整えてくれている。
そうして、ぼくたちが必要とするようなタイミングにおいて、ぼくたちの前に現れ、やはり、何かを差し出してくれるように思う。
例えば5年以上も「積読本」として存在していた本を、あるとき、ふと、ぼくは読みたくなる。
本をひらくと、そこにはやはり、ぼくがそのときに必要としていることが書かれていて、ぼくを助けてくれる。
準備ができたときに師は現れるように、準備ができたときにスタンバイしていた積読本はぼくたちに必要なものをとどけてくれる。
本を手にしたとき、いずれ必要になることを、ぼくの無意識は「知っていた」のだと言うこともできる。
ぼくはそのようにして、今日も、積読本の一冊を、ひらく。
購入してから何年も経過していた本だけれど、その本は、ぼくのために<スタンバイ>してくれている。
野球やサッカーのベンチ控え選手のように、身体を暖めながら、スタンバイしていてくれる。
そうして、代打や交代の選手がゲームをひっくり返すこともあるように、そのときの「じぶん」の内面の流れを大きく変えてくれることもあるのだ。
そんな日がくることを、積読本はあたかも知っていたかのように。