海外に住んでいても、日本のゴールデンウィークの時期には、生まれ故郷の「浜松まつり」のことを思い出すことになる。
「浜松まつり」は、毎年5月3日~5月5日に行われ、この3日間、朝から夜まで、凧揚げ合戦、練り、御殿屋台の引き回しなどがくりひろげられる。
「浜松まつり公式ウェブサイト」によれば、子どもの誕生を祝う凧揚げの伝統は、一説では16世紀半ばに起源をもつとも言われている。
それぞれの町がひとつの組織となり、近年では170を超える町(御殿屋台引き回しは80を超える町)が参加しているようだ。
初子の誕生を祝って「初凧」が揚げられ、また「糸切り合戦」がくりひろげられる。
夕方からは市の中心街に場所をうつし、練りと御殿屋台の引き回しが街頭を熱気と煌びやかさで彩る。
この3日間、「浜松」は、その様相をまったく変えてしまう。
これほどの規模と伝統でつづいている「まつり」は、世界でもそれほど多くはないのではないかと、ぼくは思う。
「まつり」をとおして、ぼくたちは、人や社会の異なる位相に出会う。
日常性から離れた世界である。
まつりのために「法被(はっぴ)」を着ることで、ぼくたちはこの「異世界」へ入り込む準備をする。
男の子も、女の子も、普段とは異なる姿で、大人たちと一緒に、まつりの世界に入っていく。
普段は車が通る「道路」を、ラッパの音を鳴り響かせながら、練り歩く。
普段の道路が、「道路」ではなくなる。
社会学者の真木悠介は、ブラジルのカルナバルの体験を綴りながら、次のように書いている。
<聖・俗・遊>というカイヨワの卓抜な人間世界の構図。ホイジンガーが<聖・俗>二元論の中で、遊びを聖なる領域としたのを批判して、遊びはむしろ聖の対極に立つことをカイヨワは指摘する。<俗>なる日常世界を中点に、<聖>はいっそうの厳粛と緊張の時、<遊>はいっそうの奔放と自在の時だ。
しかし同時にこの対極をあえて同一のものとみたホイジンガーの直観にもまた、心理は含まれているはずだ。最も奥深い<聖>の極地と最も奥深い<遊>の極地…。
真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年
1970年代半ばのブラジルのカルナバルを前に、「カルナバルの三日四晩のために、カリオカ(リオっ子)は一年間働いた金をほんとうに使い果たしてしまう」(前掲書)ほどの熱気に包まれながら、真木悠介は、とても美しい筆致で、体験を綴っている。
「浜松市」が、在日ブラジル人コミュニティの中心都市となっていることは、産業都市ということがまずはあったのだろうことは、想像に難くない。
けれども、(前夜祭含め)三日四晩の「浜松まつり」に全身全霊をかける人たちと、三日四晩の「カルナバル」に全身全霊をかける人たちの、生のあり方と楽しみ方の通底性も見てとれるのではないかと、ぼくは思う。
今日(5月6日)は、3日間で177万人の人出(「浜松まつり閉幕 3日間の人出177万人」静岡新聞)であった浜松まつりが閉幕しての翌日。
三日四晩の恍惚のなかに散開した生のひとときを胸に、ゆっくりと眠りについているのかもしれない。
そして、人は、<俗>の領域へと、ふたたび立ち上がってゆく。