社会学者である真木悠介の考察に、「プロメテウスとディオニソスーわれわれの「時」のきらめき」と題されたものがある。
そのタイトルだけではその内容が定かではないけれど、「交響するコミューン」というシリーズにおいて、1973年に誌上で連載され、そのシリーズの最後に書かれた文章である。
文章は名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)に収められ、この著書の最後におかれている。
ぼくたちの「生のあり方」を、ひとまず、全体像のなかにおさめる試みで、(短いけれど)深い考察に充ちた内容となっている。
文章は次のように書き始められている。
われわれの日々の生活は、未来にある目標によって充実することもできるし、現在における交感によって充実することもできる。すなわちわれわれの<今、ここにある自分>の生は、その内に未来を抱くことで充たされることもできるし、他者(人びとや自然)を抱くことで充たされることもできる。
真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年
こう書き出してから、真木悠介は次のようにひとまず呼んでいる。
●「未来によって充たされる生のあり方」=「プロメテウス的な生」
●「他者によって充たされる生のあり方」=「ディオニソス的な生」
「プロメテウス」は文明の英雄(文明を構築する人類の、労働・生産・創造・前進の英雄)であり、「ディオニソス」は反文明の英雄(人間と神・自然、人間と人間を和解させるイメージ)である。
ここで真木悠介は、C.W.モリスによる比較研究(キリスト、ブッダ、マホメッド、孔子、老・荘、エピクロス、ストア派、アポロン・ディオニソス・プロメテウスの神話等々の比較研究)をとおして導きだされた「人間の生き方における究極の三次元」にふれ、次の3つの要因について書いている(※前掲書より)。
(1)プロメテウス要因(創造・生産・克服・支配・変革・活動・努力・労働など)
(2)ディオニソス要因(交感・融合・共感・愛・連帯・集団的享受・感受性など)
(3)ブッダ要因(解脱・超越・瞑想・自己認識・自己統一性など)
これらの3つの要因が「円」をつくるようにして描かれ、互いに影響し、均衡をとっている(本書ではさらにその他の「原理」も複合的に描かれているけれど、ここでは省略する)。
私自身の志向するところはもちろん、一つの社会の内部においても、一つの集団の内においても、一人の生涯のうちにおいても、プロメテウス的、ディオニソス的、ブッダ的な生を、相互に増幅し徹底化する交響性として実現することにある。
真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年
真木悠介はそのように「生のあり方」のイメージを語ったうえで、具体的な形態については、あらかじめプログラムされるべきものではなく、そのつどに創出するものとしている。
『気流の鳴る音』の本編とは別の章で展開される文書ということもあって、ぼくはあまり深くは読んでこなかった文章でもあるけれど、よく読んでみると、「生のあり方」の本質にするどくきりこんでいる考察でもあることに気づく。
「ではどうすればいいの?」と方法ばかりを他者に依存する人たちにとっては、上述のとおり「具体的な形態」は語られていないから、物足りなさが残るかもしれない。
しかし、「具体的な形態」は、ぼくたちひとりひとりに託されていることである。
「プログラム化された方法」は、ぼくたちを狭い方法と生のあり方に閉じ込めてしまうだろう。
20世紀は「プロメテウス要因」が、社会や集団や個人の生を牽引してきた時代であった。
ディオニソス要因とブッダ要因に照らされた活動や人びとの生が、あらゆるところに現出しながら、これからの時代の方向性をつくろうとしているように、ぼくには見える。
これからの開かれてゆく社会とひとりひとりの生のなかで、3つの要因が「相互に増幅し徹底化する交響性」として実現される方向に、「生のあり方」をかんがえてみることができる。