香港の文学者である也斯(1949~2013)は、比較文学学者の四方田犬彦との往復書簡(四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』岩波書店、2008年)のなかで、じぶんの生い立ちを随所で語りながら、也斯より若い世代の香港の人たちが、日本のテレビドラマを見て育ってきたことを語っている。
誰でもよく知っているテレビドラマとして挙げられているのは、『キャプテン翼』『きまぐれオレンジロード』『キャンディ・キャンディ』『Dr. スランプ アラレちゃん』『ミスター味っ子』『ロングバケーション』『おいしい関係』などである。
また、也斯の子供たちは、『ドラえもん』『美少女戦士セーラームーン』『ちびまる子ちゃん』などを見て育ってきたという。
ここ香港では、今でも、街のなかで、『キャプテン翼』『ドラえもん』『アラレちゃん』『ちびまる子ちゃん』などを、よく見る。
先日はショッピングモールのイベント会場に『キャプテン翼』を見て、とても不思議な感じがすると共に、「キャプテン翼」の根底に流れる<普遍性>のようなものをかんがえていたところである。
ところで、四方田犬彦は、也斯への手紙のなかで、小説家の村上春樹の作品に言及しながら「文化的無臭性」という問題にふれている。
…恐るべき文化的無臭性が、ハルキの小説の根底に横たわっているのです。
誤解がないようにいっておきますと、わたしはハルキの作品が日本文学ではないと、単純化していいたいのではありません。彼はどこまで日本語で書き、日本を舞台に日本人を描いてきた作家です。ただ、強調したいのは、彼がこれまで海外の眼差しがステレオタイプとして享受し、また期待もしてきた日本的なるものから、完全に距離をとっているという事実です。…
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
香港でも、村上春樹はよく読まれており、新作が出ると、店頭に高く積まれることになる。
村上春樹の作品の登場人物を中国人名にしてみたら、香港の物語と受け取る香港の人たちは多いのではないかと、四方田は書いている。
そのような「文化的無臭性」に包まれる村上作品が海外に波及していく仕方は、「ある意味で日本のアニメや漫画、またTVゲームのそれと平行」していると、四方田はさらに指摘している。
そうして、日本文化であっても、香港文化であっても、それらの「ローカリティを犠牲にし、無臭性に徹することでしか、外国に受容されない」のだろうかと、彼はじぶんに問い、思考をめぐらせている。
「キャプテン翼」の<普遍性>のようなことをかんがえていたら、ぼくは、四方田犬彦のいう「文化的無臭性」という視点に、たまたま出くわしたのである。
世界の都市の風景と生活スタイルが「文化的無臭性」の方向に、一様化されてきているようなところは、実際の経験のなかで感じる。
「一様化」という言い方よりも、グローバリゼーションの流れにおける「標準化」の力である。
文化の地層を深く掘っていくことを通して、その根底に諸々の文化を通底するような水脈につきあたるのではなく、それとは逆の方向に「標準化」してしまうような力学だ。
「文化的無臭性」という見方をその表層においてぼくは理解しつつ、村上春樹の作品の根底に「文化的無臭性」が横たわっているのかどうかは、ぼくにはわからない。
村上春樹自身が語るように、無意識の次元に降りて書くようなスタイルは、むしろ人間のなかの深い水脈に降りていくこともできるかもしれず、それは文化的無臭性とは逆の方向に<普遍性>を見出すようにも思えるからだ。
ぼくにはわからないけれど、ただ言えることは、ぼくたちの生は(ひとつの)文化だけに規定されているわけではなく、例えば「生命性/人間性/文明性/近代性/現代性」(見田宗介)というようにそれぞれが共時的に、ぼくたちのなかに生きつづけているということである。
それでも、「文化的無臭性」という四方田犬彦が提示した視点と問題は、ぼくのなかに収めておきたい視点と問題提起である。