「人によろこばれる仕事をすること」という根源的な欲望。- 「欲望の相乗性」(見田宗介)。 / by Jun Nakajima

「人によろこばれる仕事をすることは、人間の根源的な欲望である」と、社会学者の見田宗介は書いている。

ぼくもその通りだと思う。

社会学者である見田宗介は、新著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)の最終章である第六章の「補」に、「欲望の相乗性」という文章をおいて、そこで、この人間の根源的な欲望について書いている。

「欲望の相乗性」は、見田宗介が追い続けてきたテーマである。

 

社会における関係の原理としては、二つの側面、「欲望の相克性」と「欲望の相乗性」がある。

現代社会・近代社会の競争のなかで、人と人の欲望は「相克性」として拮抗する。

現代社会・近代社会の矛盾と相克を「情報化/消費化社会」として鮮やかに描いた見田宗介は、それらの問題とともに、人間社会の現在と未来をひらく拠点としての<欲望の相乗性>ということを、人間以前の生命史全域にまで遡りながら、明晰に理論を展開してきた。

 

新著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』では、現在と未来をひらく<欲望の相乗性>という人間・人間社会の諸相を、現代社会の「先」にくる時代のなかに降り立って眺める視点で、その諸相をストレートに伝えている。

「現代社会はどこに向かうか」という問いに応答しながら、これから時間をかけて、やがて到来すると見田宗介が描く、人間社会の「第三局面」(経済成長の完了した社会、安定平衡の高原・プラトー)。

そこでは、人びとが経済成長また経済競争の強迫から解き放たれ、アートと愛と自然との交歓を楽しみ、それからまた「社会的な<生きがい>としての仕事」が、幸福のリストとして付け加わると、見田宗介は書いている。

「社会的な<生きがい>としての仕事」は、人によろこばれる仕事であり、その射程は「仕事」の全領域にわたっている。

小さい頃の見田宗介は、席がいちばんよく揺れるバスの一番後ろが好きで、大きくなったらバスの運転手になってバスをゆらすことで、みんなをよろこばせることを夢見ていた時期があったという。

その記憶をとりだしながら、つぎのように書いている。

 

 バスをゆらせればみんながよろこぶと思ったことは、わたしのあさはかな、まちがいだった。方法はまちがっていたのだけれども、ばかな子供が考えていたのは、なんとかして、みんながよろこぶ仕事がしたい、ということであったと思う。お菓子屋さんになりたい子どもと同じ思考の回路であった。よい先生に恵まれた人は、教師となることを志望することがある。大切な人の命を医術で救われた人は、医師となることを欲望することがある。人によろこばれる仕事をすることは、人間の根源的な欲望である。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

 

ぼくも、この、「人間の根源的な欲望」に導かれるようにして、仕事を選び、それらの仕事をしてきたと思う。

 

この短い文章「補 欲望の相乗性」は、つぎのように書かれ、筆がおかれている。

 

 経済競争の強迫から解放された人びとは、それぞれの個性と資質と志向に応じて、農業や漁業や林業やもの作りや建築や製造や運転や通信や報道や医療や福祉や介護や保育や教育や研究の仕事を欲望し、感受して楽しむだろう。あらゆる種類の、国内、国外のボランティア活動を楽しむだろう。
 依拠されるべき核心は、解き放たれるべき本質は、人間という存在の核に充填されている、<欲望の相乗性>である。人によろこばれることが人のよろこびであるという、人間の欲望の構造である。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

 

この「人によろこばれることが人のよろこびである」という人間の欲望の構造に、実際に生きることの側面を考慮して書き加えるとすれば、文章の前に、「ほんとうに好きなことをすること」を加えたい。

ほんとうに好きなことをすることで人によろこばれ、その人によろこばれることが人のよろこびであること。

その無限にひろがる連鎖のなかに、見田宗介の描く人間社会の「第三局面」、経済成長の完了した<永続する幸福な安定平衡の高原(プラトー)>で、そこに住む人たちと社会はみずからをひらいてゆくと、思う。