「詩人」とは、どのような存在なのだろうか?
「詩人」は、どのように定義されるだろうか?
その言葉を、表層においてすくいとれば、単純に、「詩をつくる人」などと、いったんは書いてみることができる。
でも、これでは、「詩人」のことを、なにも語っていないようにも聞こえる。
真木悠介(社会学者である見田宗介)は、つぎのように、定義をしている。
…詩人とは、ある現代の詩人のいうように、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>として定義される…。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
詩人とは、詩をつくり、詩を発表し、詩を朗読し、詩を売る人であるけれども、詩人とは根元的にどのような人間であるかということに対して、真木悠介の書く、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>という定義は、とても明晰であるように、ぼくはかんがえる。
この真木悠介による定義は、『自我の起原』という本の「補論1<自我の比較社会学ノート>」の最後の方で、「補論2 性現象と宗教現象ー自我の地平線」の導入部分として、書かれている。
この本のタイトルにあるように、本論は、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>とは逆に、ある意味で「自分と世界との境目をはっきりさせる」自我や意識などを問うものに対して、この「補論2」が対極に置かれている。
補論2は、自我の起原を問う本論の主題の対極に、自我の地平線、あるいはその消失点 vanishing pointを問うモノグラフである。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
「自我の地平線」あるいは「自我の消失点」とは、言ってみれば、「自我」が(一時的に)消失し、<自分と世界との境目がはっきりしなくなる>ような経験である。
真木悠介は、この視点において、「詩という現象」をつぎのように位置づけている。
…つまり詩という現象は、性現象/宗教現象がそうであることとおなじに、<自我>という現象の vanishing point、あるいは地平線に立つ現象と考えられるからである。そして、M.K. は、少なくともこの定義における<詩人>の、極限的に直截な存在のかたちと考えられる…。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
「M.K.』とは、想像がつくように、「宮沢賢治」のことであり、「補論2」は、宮沢賢治がモノグラフの素材としてとりあげられている。
「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)という、宮沢賢治のよく知られる文章は、「わたくし」(自分)と「林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたもの」(世界)との<境目>が、はっきりしなくなる「地平線」において、「おはなし」として、書かれたものである。
そして思うのは、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>としての詩人という定義のなかで、あるいは自我の地平線である「詩という現象」の視点において、人は、だれしもが<詩人>でありうるのだ、ということでもある。