読書に疲れたとき、ぼくは読書する。- たとえば、村上春樹『村上さんのところ』であったり。 / by Jun Nakajima

読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。

と書いてみて、こんなフレーズも悪くないと思いながら、これでは何を言っているのかわからないじゃないか、と思う。

たとえば、資本主義にかんする本を読んでいて疲れたら、ここ香港でも人気の村上春樹の『村上さんのところ』(新潮社)をひらく。

 

『村上さんのところ』は、何年かに一度期間限定で行われる、村上春樹と読者との「公開されたメールのやりとり」の「2015年」開催の記録である。

質問メールは、17日間のうちに「3万7456通」が寄せられ、それらすべてを読んだ村上春樹が「3716通」を選び、返事のメールを書く。

『村上さんのところ【コンプリート版】』(電子書籍)には、その「3716通のすべて」(400字詰め原稿用紙で約6000枚)が収録されている。

 

「まるで降っても降っても降り止まぬ大雪の中、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいな感じで、最後のほうはかなりふらふら」であったというほどの「大作」であり、それだけを聞くと、読む側も疲れそうである。

けれども、一通一通のメールはさらっと読めるし、村上春樹による返事のメールは、どんな質問にも軽快に、ユーモアをふくめながら書かれていて、「質問への応答の仕方」を学ぶことだって、その気になれば、楽しみながらできる。

なによりも、あの、村上春樹の「リズム」は健在で、その場で即興で曲のちょっとしたフレーズを作って、リズムをつけて演奏するような「返信」だ。

そんなわけで、たとえば資本主義の本に疲れたら、ぼくはこの「リズム」にひたりながら、『村上さんのところ』を読む。

 

気がつけば、『村上さんのところ』の「3716通のすべて」は、はるか先である。

ときおり本をひらいて読むのだけれど、いっこうに、すすんでいかない。

読了を意識してしまうと、「まるで降っても降っても降り止まぬ大雪の中、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいな感じ」になってしまうから、読み方は、読了を目指さないことである。

 

それにしても、いろいろな質問が投げかけられる。

こんなことを(こんなことまで)村上さんに聞くことの意味を、ついかんがえてしまったりするほどだ。

この期間限定のサイトを見ながら、ある人は、村上春樹のことが大好きな人がたくさんいることを感じ、「春樹さんはこのように言われて、『本当の俺のことも知らないくせに、よく言うぜ、けっ。』て思うことがありますか?」と質問を投げかけられる。

村上春樹は、この問いに、つぎのように応えている。

 

本当の自分とは何か?って、よくわからないですよね。人間というのは場合場合によって、ごく自然に自分の役割を果たしているわけで、じゃあタマネギの皮むきみたいにどんどん役割を剥いでいって、そのあとに何が残るかというと、自分でもよくわかりません。だから「本当の俺のことも知らないくせに、よく言うぜ、けっ。」みたいなことは、まったく思いません。せつせつと自分の役割を果たしているだけです。たぶん本当の僕というのは、いろんな役割の集合としてあるのだろうという気はします。…

村上春樹『村上さんのところ【コンプリート版】』新潮社

 

「本当の自分とは何か?」について、これだけ簡潔に、これだけ軽快に、でも本質の一面をつく仕方で書くのは、けっこう(というか、かなり)むずかしいものだ。

こんな「メールのやりとり」に、つい、立ち止まってしまって、『村上さんのところ【コンプリート版】』の世界でふりつづく大雪のなかで、ぼくの雪かきはまだまだつづく。

 

こんなふうにして、読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。

 

追伸:

実のところ、香港の建築現場に組まれた竹の足場が、なぜか、ぼくに『村上さんのところ【コンプリート版】』
を連想させたのであったことを、ここにメモ。

だから、竹の足場の「芸術」の写真を、ともに、ここにアップロードしておきたいと思うところです。