風と豪雨が入り混じり、断続的に轟音を鳴り響かせている。
窓の外に目をやると、海と森が揺れているのが見え、そのすさまじさをさらに感じる。
9月16日、香港の南の海域を、超大型の「台風」が通過している。
この文章を書いている現在(16日午前)、香港の天文台(気象庁)は台風・熱帯低気圧(Tropical Cyclone)の「警告シグナル」を最大(Hurricane Signal No. 10)にまで上げている。
シグナルが最大を示したのは、天文台の統計によれば、1946年以降で15回、今日で16回目のようだ。
21世紀になってからは、2012年の1回、2017年の1回、そして今回の3回目となる。
だから、ぼくは2007年に香港に来てから、これで3回目の経験となる。
しかし、今回は、これまで以上に「強い」(かなり強い)と感じる。
文章を書きながら、風の轟音がどうしても耳に届いてしまい、タイピングする手が止まってしまう。
また窓の外に目をやると、まさに、ハリケーンのただなかに置かれているような、そのような光景がひろがっている。
雨は四方八方に降り、木の葉なども四方八方、風のなすがままに舞い上がったりしている。
至るところの木々の枝が折れ、道をふさいでいる。
鳥たちはどこに身をひそめているのだろうかと、ふと考えてしまう。
海の水位が上昇し、高波が起こっている。
建設現場では物がいっぱいに散乱している。
すさまじい音が幾度もやってくる。
(中断)
数時間が経過して、「あの」すさまじい轟音の波が去っていき、強風がふきあれる程度と轟音の頻度が少し減じたようだ。
まだ、「警告シグナル」は最高度が発せられている。
書くことを「中断」していたけれども、また書き始める。
この状況のなかで思うのは、「台風」という言葉だけで、その内実を判断してしまうのは危険だということ。
それぞれの場所での特有の台風があり、その土地に起こりやすい災害や影響がある。
「香港」という場所の特性があり、そこに到来する台風の特性がある。
さらには、同じ場所にいたって、それは時(とその場所の位置)によって「異なる」こともある(※最近はそのような事象が見られる)。
だから、たとえば日本でじぶんが経験してきた「台風」の記憶だけを頼りに考え、判断し、行動することは危険である。
(外で、強風の轟音がぶりかえしている…)
「りんご」という言葉(哲学的な議論でよく持ち出される「りんご」)は、「りんご」というカテゴリーによって一般化されるけれども、だからといって、それぞれの「りんご」が同じではない。
「台風」も、そのカテゴリー的な名称(と経験)だけで、「わかっている」と思うのは、言葉という人間の「人工物」のなかに閉じ込められているのだ。
(それにしても、この建物という「人工物」の強度もすごいものだ)
海外に出た時には、旅であっても、そこで生活するのであっても、じぶんの経験からつくりあげた「言葉の檻」からも出ることである。
(かなりの強風と雨がふたたび、つづけざまに建物にぶつかっている…)
じぶんから出なくても、異なる「現実」が、ときに向こうからやってくることもあるけれど。
(台風が香港に最も接近しているときだ…被害が最小限におさまるとよいと思う…)