「猫」のいる、香港の風景。- 「猫があまり見られない」環境のなかで、猫と出会う。 / by Jun Nakajima

香港に住んでいて、「猫」を見ることがほとんどない。いつのことだったか、そんなことを思ったことがあった。

風景のなかに猫があらわれるのは、まれなことである。「香港」とくくってしまうのは言い過ぎかもしれないけれど、少なくともぼくの経験からは、猫はあまり見ないのである。

逆に(「逆」と言い方もどうかと思うけれども)、「犬」はよく見る。ほぼ毎日(家の外に出るとすれば「毎日」)、ぼくは犬を見ている。ほんとうに、いろいろな犬たちを目にする。

おどろくことではなく、犬たちにとっては「散歩」があるからである。猫たちも「外出」はあっても、散歩ではない。


このような風景があらわれる「前提」、つまり環境をまだぼくは書いていない。

その前提とは、「高層マンション/アパートメント」の立ち並ぶ環境である。香港で暮らしてゆくとき、一軒家のオプションもあるけれども、香港の中心部に近くなればなるほどに「高層マンション/アパートメント」に住むことが「ふつう」である。

香港に長く住みながら、ぼくは、この「あたりまえのこと」に「明確に」気づいたのは比較的あとになってからであった。

覚えているのは、台湾を旅していたときのこと。台湾(香港から2時間弱のフライトで行ける距離にある)を旅していたとき、バスの窓の外に見える風景を見ながら、ぼくは「あれ、なんか違うなぁ」と感じたのであった。それは「高層ビルが少ないこと」であり「一軒家」が多いこと、つまり「香港と異なる風景」であった。

香港で日々暮らしてきて、「一軒家」の立ち並ぶ環境にいなかったことに、ぼくは気づいたのであった。


このような高層マンション/アパートメントの立ち並ぶ環境のなかで、猫たちは「家」のなかで暮らすか、あるいは一軒家的な場所でときおり、その姿をぼくに見せるのである。

だから、香港の中心から離れ、郊外の町にいったときに、路地裏で猫を見たときには、とてもなつかしく感じたりすることになる。また、香港の中心部においても、高層ビルが建っているような開発されている場所ではなく、裏道のようなところで、猫に出会うことがある。

そんな場所で猫に出会うと、「おっ」と、心が少し踊ることになる。

このブログの写真は、店先でゆったりとかまえる猫に出会って心が踊り、その気持ちにまかせて撮った猫である。

村上春樹の本に、旅のエッセイが収められた『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)という本があって、そのなかに、奥様である村上陽子が撮影した猫たちの写真も掲載されている。とてもすてきな写真たちだ。

香港の路地裏で、猫に向けてカメラを向けようとしたとき、ぼくの脳裏に、それらの写真たちが浮かんだ。ということを、とくに意味もないけれど、ここに書いておきたい。


ところで、少しまえに、読んでいた本のなかで、町の路地裏に猫(野良猫)たちが登場する。

その本のなかで、著者の平川克美は、自身で「猫の町」と呼ぶ、五反田と蒲田をつなぐ池上線沿線の䇮原中延駅の近くに引っ越してきてから、何か月か後に、道で出会う猫たちと会話をするようになったことを書いている。


 わたしはときどき、猫と対話します。
 「こんにちは。少し話をしようじゃないか」
 「きみたちにとって、この町は住みやすいですか。きみたちの仲間は、どうやって食べ物を確保していますか。病気になったときはどうするんですか」
 こんな質問を投げかけてみるのですが、もちろんわたしは猫語を話せるわけではありませんので、かれらに通じるわけもありません。

平川克美『路地裏の資本主義』(角川SSC新書、2014年)


こんな「猫町」から見ていると、「人間の生活の過剰さ」がよく見えてくると、平川克美は書いている。

そんな「猫町」の猫たちは、つぎのように、平川に問うている(平川克美の耳には、そのように聞こえてくる)。

「あなたたちは、どこへ行こうとしているのですか」と。


「猫町」ではないけれど、香港の猫たちは、果たして、なにを「問う」ているのだろうかと、ここ香港で、ぼくは考えてみたりする。