<人生はみじかく、はかない>という命題。- この命題の「自明性」をほりおこし、くずしてゆく。 / by Jun Nakajima

ビートルズに「We Can Work It Out」という曲がある。大学生の頃、その曲を聴きながら、いつも「ひっかかる」箇所があった。

少しテンポと調子が変わって、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの歌声がひびく、「Life is very short, and there’s no time for fussing and fighting, my friend…」と。「人生はとても短いんだ、くよくよ悩んだり、争っている時間はないんだよ」と、友人に語りかける。

「Life is very short, and there’s no time…」という、わかりやすく、聴き取りやすい英語だったからかもしれないけれど、「人生は短いんだ」というのが、どうも心にひっかかる。

「人生は短いんだ」ということばに、どのように自分の生きかたをつなげてゆくのか、というところで、「人生は短いんだ」からぼくは「後悔しないように…」を選びとり、生きてきている。この「人生は短い」が語られる文脈のなかでは、「だから、はかない」と続くこともあるなかで、その方向にではなく、別の方向を選びとる。


けれども、そもそもの「人生は短い」ということは、どう見たらよいのだろう。

「時間」にかんする名著『時間の比較社会学』において、真木悠介はその冒頭で、<人生はみじかく、はかない>という命題をあげて考察している。

「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」という劉廷芝の詩をとりあげ、客観的でのがれがたい時間の事実をうたっているように見えるが、そうではなく、「人間のみの個別性にたいするわれわれの執着のもたらす感傷にほかならないこと」がわかると、検討を加えている。

自分と花がもし入れ替わったとしたら、花である自分は、花とくらべてほとんど無限の生を享受しているかのような人間のことを、ぜんぜん違った感傷でうたっただろうというのだ。また、じっさいに、人間は動物のなかでももっとも寿命が長いとしながらも、「そうはいっても…」と聞こえてくる声を想定して、つぎのように書いている。


 …しかしこのように数学的に検証してみても、人間の生の「みじかさ」を実感しておののいている人はけっして納得しない。人間の寿命が仮に二百年であり、あるいは二千年であっても、かれらはそのことに納得しないように文化を作っていただろう。「人間ーこの短命なものどもよ」と古代の神話のなかでいうのは神々であり、神々はふつう無限の生命を享受するからだ。人間の寿命が馬や獅子よりも長く、あるいは二百年、二千年であったとしても、永遠のまえには一瞬にすぎないからだ。
 だがそれにしてもなぜ永遠を準拠にとるのか?
 <人生はみじかい>という命題はじつは、なんらの客観的事実でもなく、このように途方もなく拡大された基準のとり方の効果にすぎない。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)


なんどもなんども読み返してきた文章であるのだけれど、今回読み返しているなかで、なぜか、ここの箇所にぼくはひきつけられている。とくに、「人間の寿命が仮に二百年であり、あるいは二千年であっても、かれらはそのことに納得しないように文化を作っていただろう」というくだりである。

それは、人類が目指している(だろう)「不死」ということに、重なったからである。

「人類の21世紀プロジェクト」として人類がつぎに見据えている「プロジェクト」は、不死(immortality)、至福、(bliss)、「Homo Deus」へのアップグレードの3つであると、歴史学者Yuval Noah Harariは著書『Homo Deus』で書いている。

人類が「不死」を達成させるかどうかはわからないけれども、仮に人類が「不死」にちかい長寿(二百年だとか、二千年だとか)を達成したとしても、<人生はみじかい>ということばはなくならないのではないか。「基準」を<無限>に設定し、二百年であっても、二千年であっても、「そのことに納得しないような文化」を作ってしまうのではないだろうか。そんなことを、ぼくは考えるのである。


では、どの方向性に出口を見出してゆくのか、ということが問われる。

整体の創始者といわれる野口晴哉(のぐちはるちか)は、自身の哲学のようなものである「全生」ということにふれて、かつて、つぎのように書いた(生きた)。


…象の百年生くるも全生なら、蝉の一夏の生涯も又全生なのだ。大と小と対立させてその価値に拘泥するのは、人間的な有限感覚に基づいているに他ならぬ。人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ。
 この如く、人間が人間感覚からのみ推して ものを対立させているなかに宇宙的無限感を得たものがいたなら、こう言うだろう。

野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)


そして、真木悠介自身は、上記に引用した文章につづけて、つぎのように書いている。


 …「みじかさ」が、たんに相対的不満ではなく絶対的なむなしさの意識となるのは、このばあいもまた、生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚が失われ、時間が過去をつぎつぎと虚無化してゆくものとして感覚されるからである。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)


真木悠介は著書『時間の比較社会学』のぜんたいを通して、「生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚」が失われてきたことの社会的な構造などをおいながら、その感覚を豊饒に享受する道を照らしている。

もちろん、これらの「道」を生きるのは、ぼくたちひとりひとりである。その助走として、<人生はみじかい>ということ自体が問われなくてはならない。