西アフリカのシエラレオネと東ティモールではNGO職員として、それから香港では人事労務コンサルタントとして仕事をしてきた。シエラレオネの人たち、東ティモールの人たち、香港の人たち、世界のさまざまなところから来ている人たち、海外で仕事をする日本の人たちと、一緒に仕事をしてきた。
これらの経験は、ぼくにとって、なににもかえられない、ほんとうに宝の経験である。
26歳でシエラレオネに赴任。最初の赴任が「アフリカ」という、今思えば、(ぼくにとって)これ以上ないほどの機会をいただいた。
現地組織またプロジェクト運営上は「管理職」であり、来る日も来る日も試行錯誤の連続のなかで、「組織を運営する」ことと「一緒に働く」ということを経験してきた。15年以上が経過した今から振り返れば、ああしていればこうしていれば、ということがいろいろとあるのだが、それでも、当時は、じぶんの「限界線」をはるかに超えてゆくような気持ちで、全力を尽くしたと思う。
翌年(2003年)に東ティモールへと新たに赴任する際には、シエラレオネでの「経験」を最大限に生かしていこうと、気持ちを新たにして、東ティモールの首都ディリに降り立った。
結局、2007年初頭まで東ティモールにいたのだけれど、東ティモールで「一緒に働く」ということを思い起こすとき、うまくいかない時期や厳しい時期などがいっぱいにあったなかで、それでも、ぼくは一緒に働いた人たちと「よく笑った」ということを思い起こす。
「厳しい時期」には、ディリ騒乱という外的な状況変化も含まれる。ディリ騒乱によってぼくは一時的に東ティモールから退避しなければいけない状況になったが、そんな時期があったにもかかわらず、一緒に仕事をしながら、あるいはコーヒー農園の近くで一緒に過ごしながら(寝食を共にしていた)、「よく笑った」と思う。
「よく笑う」ことは、たとえば、東ティモールの同僚たちとかわすギャグやジョークから生まれた。日本であれば、たとえば「オヤジギャグ」というカテゴリーに投じられるような、ほんとうに単純で、「つまらない」ギャグやジョークで、ぼくたちは、ほんとうによく笑った。
はたから見れば、なんでそんなギャグやジョークで笑えるのだろう、というような「内容」であったと思う。でも、ぼくたちは、それで充分であったのだ。
言語の違いや生活習慣/行動の仕方の違いなど、異文化の<あいだ>だからこそ生まれてくるようなギャグやジョークもあった。同一文化内のデフォルト的なギャグやジョークではないから、双方に新鮮味があったことも、「おかしみ」を共に感じることができた一因であったかもしれない。
でも、今振り返ると、ギャグやジョークが生まれてくるような<関係性>の土台があったことが、とても大きなことであったのだと、ぼくは思う。そのような土台において、ギャグやジョークは生まれると共に、関係性をさらに創っていく円滑油となる。
とてもシンプルで、単純で、「内容」という内容がないようなギャグやジョークをかわすことのできる関係性。
とてもシンプルで、単純で、「内容」という内容がないようなギャグやジョークで、充分に笑い合うことのできる関係性。
そんな笑いの祝祭空間で、関係がさらに熟成し、「笑う」ということだけで、ともにいるということの<存在>を祝福できるような関係性。
うまく意思が伝わらないことも、コミュニケーションの行き違いも、いろいろとあったけれど、「よく笑い合う」関係性が、もろもろを包んでいた。
2007年、東ティモールを去るとき胸にこみあげるものがあったけれど、それは、今だからこそ、いっそう愛おしいものとして、ぼくの胸にこみあげてくるものがある。
そんな関係性のなかで、一緒に仕事をし、一緒に生きてきた体験は、ほんとうに、ぼくにとっての宝物だ。