原住アメリカ人の小部族であったヤヒ族の「最後の人」となったイシ(1860/1862~1916)、イシと親しくしてきた文化人類学者アルフレッド・クローバー、アルフレッド・クローバーの死後にアルフレッドの考え方を受け継いで「イシ」にかんする著作を書いたシオドーラ・クローバー夫人、それから娘にあたり、著書『ゲド戦記』で知られているアーシュラ・K・ル=グルヴィン。
思想家の鶴見俊輔(1922-2015)は、『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)に所収の「イシが伝えてくれたこと」のなかで、上に挙げた人物たちを登場させながら、さまざまな話と視点をおりこんで、ぼくたちに語りかけている。
ことばとして、ぼくのなかに残ったことのひとつに、<望遠鏡で見る>ということがある。
つぎのような文脈で、語られる。
アルフレッド・クローバーは思想を習慣としてとらえる。クローバーの著作には、個人が出てこない。クローバーの遺著の序文を書いたレッドフィールドは、大きな人類学の会議の中で、「ソーシャル・アントロポロジー(社会人類学)の方法が、クローバーの考え方に全然入ってこないのはどういうわけか」と言う。そうすると、クローバーは「社会人類学というのは、今このときに結びつけられすぎている。自分は、顕微鏡ではなくて、望遠鏡で見たい」とこたえた。
鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)
原住アメリカ人の場合には、アジア大陸からベーリング海峡を通ってアメリカに到達してゆくというように、そのあいだも消えることのない「習慣」があり、クローバーは、そのように伝えられるものを<望遠鏡で見る>ことを方法としていた。
一方、シオドーラ夫人は、「個人の生」に焦点をあて(<顕微鏡で見る>ことで)、たとえば、イシの伝記を書いた。
クローバーにとっては、習慣=ハビットが重要だという、ハビットの思想なのだが、シオドーラ夫人の場合には、ハビット・チェンジが重要なのだ。習慣をどういうふうにして変えるか。思想というのは無意識の層につめこまれている習慣ではなく、習慣をどういうふうに変えていくかだというのが、パースの定義だ。
鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)
これはとてもおもしろい視点だけれど、さらにおもしろいのは、娘であるアーシュラは、父親であるアルフレッド・クローバーと同じように、文明を<望遠鏡で見る>視点で、SFの作品を書いていったことだ(こんな系譜のなかで『ゲド戦記』を読むといっそう深みが増すだろう)。
鶴見俊輔はこのようなつらなりの諸相にきりこんでゆき、興味深い視点を提示している。「ハビットの思想」と「ハビット・チェンジの思想」というのは、興味深い視点のひとつだ。
ぼくはこのような考え方や見方において欲張りだから、<顕微鏡で見る>ことも、<望遠鏡で見る>ことも、同じように大切にしていきたいと思う。けれども、今この時代にあってよりいっそう大切なのは、<望遠鏡で見る>という視点であると考えている。
もちろん、顕微鏡にしろ、望遠鏡にしろ、それによって、「何をどのように」見るのかにもよってくるけれども、視点がどうしても、短期的かつ微視的になりやすい時代に生きているように思えるのだ。意識していないと、<望遠鏡で見る>ことがどうしてもおそろかになってしまう。
2019年のはじまりに、「1年」ということを考える。メディアの記事でも、この1年が語られる。それはそれでよいのだけれど、そのときに、<望遠鏡で見る>こともしたい。
人間の歴史において、ぼくたちがどのような時代に生きているのか。未来を望遠鏡で見たときに、どのような光景を見ることができるだろうか、あるいは見たいだろうか。そんな問いを奏でることのできる<望遠鏡>をいつも備えておきたい。
なお、2019年は、「顕微鏡で見る」と「望遠鏡と見る」という言い方が直接に指し示すような、実際の「人間(の内側)」と「宇宙」それぞれの方向に、テクノロジーや探索が進展していくものと思われる。NASAの探査機が太陽系の最果てにとどき、中国の探査機が月の裏側に着陸するというニュースが、2019年のはじまりにとどいたように。