「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ」。真木悠介は、かつて、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)の本編のさいごのほうに、このように記した。
「翼をもつこと」だけでなく、「根をもつこと」の欲求。「根をもつこと」だけでなく、「翼をもつこと」の欲求。いずれもが<人間の根源的な欲求>であると、人間の欲望・欲求の構造を徹底的に探求してきた真木悠介は書いた。
「根をもつ」という定住のあり方が、現代の人間社会のデフォルト的な様態である。そこに、ひとびとの「物語」が生成し、語られ、そうしていっそうデフォルトの状態が強化される。
けれども、現代社会がゆるぐなかで、より自由な、さまざまな生きかたが模索されてきている。
そのような問題関心において、ぼくは、西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年)を読む(もともとは、新曜社から1986年に発刊され、絶版になっていた)。
「定住」というあり方に距離をおいて、移動をくりかえす「遊動」との比較のなかで、「定住革命」という視点を導入しながら、定住と遊動をとらえなおす。
不快なものには近寄らない、危険であれば逃げていく。この単純きわまる行動原理こそ、高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略である。
…
ある時から人類の社会は、逃げる社会から逃げない社会へ、あるいは、逃げられる社会から逃げられない社会へと、生き方の基本戦略を大きく変えたのである。この変化を「定住革命」と呼んでおこう。およそ一万年前、ヨーロッパや西アジア、そしてこの日本列島においても、人類史における最初の逃げない社会が生まれた。西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年)
「不快なものには近寄らない、危険であれば逃げていく」という、生きる基本戦略は、いわば「初期設定」として、また生きられてきた時間の長さと深さとしても、人の身体の奥深くに刻印されているのだろう。
そこに「定住革命」が起こる。まさに「革命」である。
「動物に脳がつくられた理由というのは、遺伝子レベルでは間に合わないことをするため…つまり、環境に適応するため」と養老孟司は語っているけれど、人間(ホモ・サピエンス)の「脳」は、「初期設定」である生きる基本戦略でさえも、比較的みじかい期間で、のりこえてしまう。
定住に伴って現れてきた現象、食料生産の開始、都市の発生と発展、社会の分業化・階層化などは、「脳化社会」(養老孟司)ともあわせて、考えてみることができる。
西田正規の「定住革命」の視点でおもしろいのは、定住生活は「遊動生活を維持することが破綻した結果として出現した」という視点である。
食料生産などの活動による経済的能力の向上などに定住生活の出現をみる見方とは、逆転した見方だ。つまり、「定住がデフォルト」(定住が望まれることもあたりまえ)という見方ではない視点を、西田正規は、人類史のなかに位置づけ、そこから定住と遊動をとらえかえしている。
そんな西田正規の、「ノマド」(遊動民)に対する見方もおもしろい。
逃げない社会のなかにあっても、人々が逃げる衝動を完全に失ったわけではないだろう。定住社会の間隙を縫ってすり抜けるノマド(遊動民)たちは、その後も絶えたことはなく、また、定住社会における不満の蓄積は、しばしばノマドへの羨望となって噴出する。だからこそ定住社会は、ノマドの衝動をひたすら隠し、わけもなくノマドたちに蔑視のまなざしを投げ、否定し続けてきたのであろう。
西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年)
1980年代に書かれたこの文章であるが、歴史はその後、情報通信テクノロジーの発展を支えとしながら、「ノマド」的なライフスタイル/ワークスタイルを積極的に選びとり生きる人たちを目撃してきている。
そのような人たちへのまなざしは、いまだ、「定住者会」のまなざしから脱却していないようにもみえる。まなざしも、それから社会システムも、いまだ、移行途中だ。
そんななかで、「定住革命」の視点もとりいれながら、ぼくは、じぶん自身の内奥にひそむ「遊動の衝動」へと、<ポジティブなラディカリズム>の姿勢で、まなざしを投げかける。