「静けさ・静寂・沈黙(silence)」を味方につける。- Robert A. Johnsonの体験に耳をかたむけて。 / by Jun Nakajima

ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)は、現代において、ひとびとが「静けさ・沈黙(silence)」に耐えられないことにふれている(著書“Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life”)。

あるときロバートは、友人の勧めで、「Isolation Tank(アイソレーション・タンク)」(その他、sensory deprivation tankなどとも呼ばれる)を体験することにする。

「Isolation Tank(アイソレーション・タンク)」とは光や音が遮断されたタンクで、リラクゼーションなどを目的として、ひとはタンクのなかの入り、その感覚を遮断されたなかで塩水に浮かぶ。リラクゼーションに限らず、メディテーションや代替医療としても使われているようだ。

現代生活の忙しさからいっときのあいだ離れ、ピースフルなときを体験する。昔の人たちなどが見たら「理解できない」活動であろうけれど、忙しい現代人にとっては、そのような「とき」はそれほど貴重でもある。

ロバートはそうしてタンクのなかに入り、タンクのドアが閉じられる。棺桶のようにも感じながら、しかし、タンクのなかでの「solitude(孤独さ)」に感謝し、静けさを心待ちにする。

しかし、思ってもみなかったものがやってくる。センチメンタルで、ひたすら繰り返される類の音楽である。それが、タンク室の小さなスピーカーから流れてくる。静けさに包まれると思っていたら、まったく逆に、音楽に包まれてしまう。

こうして、「solitude(孤独さ)」のときはうちやぶられ、ロバートは20分ちかくのあいだ、この音楽を我慢せざるをえなくなったという。

タンクのドアがひらき、ロバートは非難したい気持ちをおさえて、「なぜ音楽をながすのか」とオペレーターに尋ねる。オペレーターは応える。「今日ほとんどの人たちは、まったくの静けさ(total silence)にがまんできないんです」と。


ロバート・ジョンソンの気持ちもわかりながら、しかし、「まったくの静けさにがまんできない」人の気持ちも、けっして人ごとではない。

20年以上前、ニュージーランドの田舎をひとり歩きながら、ぼくはその「静けさ」にがまんできなくなったこともある。なにも、20年以上前までさかのぼらなくても、ここ香港で暮らしながら、部屋の静けさを打ち消してしまうように、音楽をかけてしまうこともある。

この近代・現代社会に生まれ、そのなかで生きてきたぼくのなかには、こんな現代人の特徴が刻印されている。

でも、ここ数年、ぼくはいっそう、「静けさ・静寂・沈黙(silence)」をじぶんの味方としてきた。そんなことも手伝って、タンクのなかでのロバートの憤りも、わかる。


「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組のホストであった故Fred Rogers(フレッド・ロジャース)は、かつてインタビューで、現代社会が「silence(沈黙・静寂)」ではなく、あまりにも「noise(ノイズ)」に充ちていることに対して警鐘をならしていた。

真剣な面持ちでゆっくりと、静かだけれど凛とした声を発するフレッド・ロジャースの「語り」は、なぜか、ぼくの印象につよくのこっている。

そんなフレッド・ロジャースの「語り」が、ぼくのなかで、ロバート・ジョンソンの「語り」と共振しながら、ひびいている。

「静けさ・静寂・沈黙(silence)」は、ぼくたちの味方である。