村上春樹訳『グレート・ギャツビー』の「冒頭と結末」のこと。- 「訳者あとがき」の<告白>。 / by Jun Nakajima

小説家の村上春樹が訳した、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(中央公論新社、2006年)の「訳者あとがき」、その最後の最後のところ(もう少しで「訳者あとがき」が終えようとするところ)で、村上春樹はつぎのように書いている。


…個人的なことを言わせていただければ、『グレート・ギャツビー』の翻訳においてもっとも心を砕き、腐心したのは、冒頭と結末の部分だった。なぜか?どちらも息を呑むほど素晴らしい、そして定評のある名文だからだ。…ひと言ひと言が豊かな意味と実質を持っている。暗示の重みを持ちながら、同時にエーテルのように軽く、捉えようとすると指のあいだからするりと逃げ出していく。告白するなら、冒頭と結末を思うように訳す自信がなかったからこそ、僕はこの小説の翻訳に二十年も手をつけずにきたのだ。…

スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』村上春樹訳(中央公論新社、2006年)


村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』本文も好きだけれど、最初に読んだときにぼくの印象につよく残ったのは、この「訳者あとがき」の<告白>であった。

冒頭と結末を思うように訳すことができないことから、村上春樹は二十年の歳月も、翻訳に手をつけずにきた。

ちなみに、この「訳者あとがき」でふれられているように、「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と問われたら、『グレート・ギャツビー』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、それからレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』を考えるまでもなく挙げると、村上春樹は書いている。そして、「どうしても一冊ならば?」と問われるのであるならば、迷うことなく、『グレート・ギャツビー』を選ぶのだと、付け加えている。

それほどの一冊である『グレート・ギャツビー』の翻訳に手をつけることが、冒頭と結末の訳に自信がなかったからできなかったというのだ。もちろん、「それほどの一冊」だったからこそ、なかなか手をつけることができなかったのだとも言える。


村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』を読んで、その「訳者あとがき」の<告白>を聞いてから、もちろん、ぼくは、スコット・フィッツジェラルドによる「原文」が読みたくなり、さっそく英語版を手に入れ、冒頭に目を通す。

目を通しながら、じぶんなりに「日本語」におきかえてみようとする。たしかに「名文」だと思いながら、しかし、「日本語」にうまくおきかえることができない。そこまでしてみて、「なるほどなぁ」と、ぼくは感じる。

こうして、「訳者あとがき」の<告白>、それから英語の名文と訳のむつかしさが、ぼくのなかにすとーんとおちてゆくのであった。


そんな「視点」と「体験のありかた」がぼくのなかにすみつき、それからというもの、ぼくは英語の本を原文で読みながら、何冊かの本で、「思うように日本語に訳せない」本に出会ってゆくことになる。

別にぼくは「翻訳者」ではないし、そのような本にめぐりあっていつか翻訳書を出そうなどというわけでもないのだけれど、それでも、ぼくは、いつか、思うように日本語に訳せたらと思うのである。

訳せるようになる過程においては、日本語をつむぐスキルや英語をよみとくスキルだけではなく、いろいろな意味において、ぼくの<成熟>が求められるだろうと、思う。だからこそ、いつか、思うように日本語に訳せたら、と、ぼくは思うのだ。

それにしても、そんな本が何冊かあるだけでも、とてもしあわせなことだと、ぼくは思ったりもする。