日本で生まれ育った人たち(日本的な思考や振る舞いを言動の「コード」としている人たち)が、旅であれ、滞在であれ、海外において「異文化」に接触していくうえで、いろいろな「問題」に直面してゆく。
とりわけ、仕事において、「異文化」接触から生まれ、現象してくる「問題」は、先鋭化することがある。たとえば旅のときのように、ただ立ち去るという態度をとることができない。できる状況もあるだろうけれど、仕事としていったんコミットしてからは一緒に目標に向かうことになる。その過程に、「問題」が現象してくる。
それらの現象する「問題」、たとえば、仕事の仕方の違いであったり、コミュニケーションの行き違いであったりは、仕事の結果が出てうまくすすんでいるときは、それほど「問題」とは捉えられないかもしれない。仕事の「結果」が、問題群をおおいかくしてくれるからである。
でも、仕事の結果が出なかったり、うまく仕事がすすまないとき、現象する「問題」は先鋭化する。
べつに、海外でなくても、うまくいっていないときは、「問題」ばかりが見えてしまったりするから、当然といえば当然である。問題の発生源を「異文化」だけにおしつけるのはまったくおかしいし、もっと根源的といえる問題の発生源を見つけることもある。
そんなふうにして異文化との接点ではなくても「問題」はさまざまに起きてくるけれど、仕事における異文化との接触においては、それなりに特色的な「問題」を見てとることができる。海外に展開する日系企業の多くに、ある程度共通する「問題」を指摘することができるである。
ひとつだけ挙げておくとすると、「コミュニケーションの曖昧さ」がある。ここでの「コミュニケーション」は、「言語」だけのことではなく、話し方であったり、言葉の選び方であったりと、その全体を指している。
会議や会話において、その全体であれ、一部であれ、「何を言っているのかわからない」という状況が発生したりする。
ここでは「問題」の詳細にははいっていかないけれど、「コミュニケーションの曖昧さ」ということのほかにも、いろいろな「問題」が現象してくる。日々の仕事のなかで、「現象する問題」の問題解決ということは大切だし、それはそれで適切にしていかなければならないことである。
けれども、「現象面」からさらに階段をおりていって、現象する問題群の発生源や根本的な「課題」をつきつめようとしてゆくことも大切である。そのときに、発生源や根本的課題について一様にとらえるというよりは、いくつかの「階層・次元」があると考える。
そんな「次元」をずっと降りていったときに、あることがらが大きな発生源であると、ぼくは「仮説」を立てる。
それは、「私」という経験のありかたの違いである。英語で「I」(私)を主語とするような「私」のありかたと、日本語のように主語はさまざまに変化・変幻する「私」のありかたの違いである。
これまでにも、この「主語」の使われかたや個人主義か否かなどはよく語られてきたけれども、この「私」という経験のありかたにじっくりと腰をすえて、仕事の場面で起こる異文化との接触の問題点を語っているものは、ぼくの知るかぎり、それほどない。(ぼくが知らないだけかもしれない。)
ぼくの「仮説」は、「問題群」の多くが、この違いに行き着くのではないかということである。あくまでも「仮説」である。まだ、「仮説」である。
この視点でだいぶ網羅できるのではないか、ということを感じながら、しかし、まだ言語化できていない。でも、ここに「仮説」として書いておきたいと思う。