芸術家の岡本太郎(1911-1996)は、つぎのように、かつて語った(そして、今も「語っている」)。
きみはあなた自身を創造していると思いなさい。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
ときおり、芸術家の岡本太郎(1911-1996)の「言葉」にふれる。岡本太郎の言葉が集められた本、『壁を破る言葉』(イースト・プレス)をひらいて、ページを繰る。
岡本太郎の芸術以上に、ぼくは岡本太郎の生きかたにひかれるのである。その魅力性は「芸術」に現れるのでもあるけれど、芸術という「プロセス」から湧き出てくる言葉の磁場に、ぼくはじぶんをなげいれてみる。
もちろん、岡本太郎が何を語ろうとしていたのかを「聴く」のであるけれど、それと同時に、その言葉にふれてぼくのなかに浮かんだり、共鳴したり、光があてられることがらに、ぼくは耳をいっそう傾けるのである。
「きみはあなた自身を創造していると思いなさい」と、岡本太郎は語りかけてくる。
とりわけ「ユニーク」な言葉ではないかもしれない。でも、岡本太郎の残像と芸術と生きかたにあぶりだされるように、この言葉が、ぼくの目の前につよくあらわれてくる。
「創造」ということにたいして、だれよりも徹底的であった岡本太郎であるけれど、ぼくが今回立ちどまったのは、むしろ「あなた自身」というところである。
ユニークな言葉ではないかもしれないけれど、ぼくたちは、「じぶん自身を創造している」ということをわすれがちである。そんなふうにぼくは感じ、「あなた自身」にひっかかったのである。もちろん、「あなた」は、ぼくをも指している。
「じぶん自身を創造している」ということをわすれがちであるということ。なぜわすれがちかというと、ひとつには、ぼくたちは、じぶんではない「何か」を、じぶんの外部に創りだすことに精一杯になっていたりするからである。
「創造」、ここのところの言葉でいえば「クリエイティビティ」は、じぶんの外側に何かを創りだすことに向けられる。じぶんの外側に何かをクリエイティブに創りだすために、じぶんがクリエイティビティになる。こんなふうに、「創造」の指は、外側に向けられている。
べつにそれがいけないということではない。それはすばらしいことだし、ぼくも、少なからず、何かを創ろうとしてきた。
ただ、「創造」が指差す方向を、外側にだけでなく、「じぶん自身」にも、向けること。そのことが、ときおり、わすれがちであったことを、ぼくは振り返りながら思う。
「きみはあなた自身を創造していると思いなさい」という岡本太郎の言葉は、そんなふうに、ぼくのなかで響くのである。
なお、「じぶん自身を創造している」と「クリエイティブになる」は、重なる部分もありながら、やはり意味合いが異なっているとぼくは思う。
ところで、ぼくが、岡本太郎の言葉を言い換えるとすれば、「あなたはあなた自身の『物語』を創造しながら生きていると思いなさい」となるだろうか。