「競争」ということ。日本的な「競争」のこと。- <境界線>に生き、考える河合隼雄に教えられて。 / by Jun Nakajima

ここ数年来、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が書いたもの、語ったものを、ぼくはよく読むようになった。

20年以上まえ、大学生のころにも数冊を読んだのだけれども、そのころはたぶん、ぼくの経験の基盤がうすく、また表層で読んでしまっていたところがあったのだろう。

あのときと比べ、ぼくの経験と思考が少しは深まったことを、いま読みながら思うのである。

また、どこの「視点」から読みとっていくのかということも、いくぶん、ぼくのなかではっきりしたこともあって、じぶんの生にひきつけて読むことができているのだということも、ぼくは思う。

河合隼雄はアメリカで心理学を学び、スイスでさらに研究をすすめたことから、「西洋」発出のものを「日本」の文化や文脈でどのように適用してゆくのかについて試行錯誤し、考えてきた。

だから、書かれているものや語られたもののなかには、日本とアメリカ、東洋と西洋などの「境界」で考えられたものが多く見られる。(いまでは言葉としてあまり聞かれなくなったが)「国際化」などについて言及しているところも多い。

このような<境界線>で考えること。このことは、ぼくのライフワークでもあり、ほんとうに多くのことを教えられるのである。


そのようなトピックのひとつに、日本人にとっての「競争」ということが挙げられている。

「競争」のよしあしを、ああだこうだと論じるよりも手前のところで、「競争」というものが日本人にとってどのようなものであるのかを、たとえばアメリカを念頭においたりして、考えている。

精神科医の中井久夫との会話に触発されるかたちで、河合隼雄は、この「競争」ということにふれている。


 私はもともと「競争」は必要と考えている。自分の個性を伸ばし、やりたいことをやろうとすると、何らかの競争が生じてくるし、それによって自分が鍛えられる。ところが、中井さんが指摘しているのは、日本人は、自分のやりたいことをやる、というのではなく、「集団から落ちこぼれない」ように頑張る、極端に言えば、一番になっておけば、まさか落ちこぼれることはあるまい、という「競争」をしている。つまり、競争の基盤が自分自身にあるのではなく、全体のなかにある。「自分はこれで行く」というのではなく、全体のなかで何番か、を問題にする。

河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)


日本的な「競争」にかんする、とても教えられるところの多い考え方である。

日本の多くの子どもたちは「落ちこぼれないための競争をさせられている」ことからキレそうになっているのではないか、とも、河合隼雄は指摘している。

ぼくも「競争」は必要であると考えているが、「競争」ということの、どうもネガティブな意味合いの一端は、言葉にしてみると、中井久夫と河合隼雄が指摘するところであると、ぼくも思う。異文化との<境界線>で考えながら、そう思うのである(だからといって、他の文化圏で「競争」がうまくいっているというわけではかならずしもないところが、「近代・現代」という時代性ともからみながら、むずかしいところである。なお、「近代・現代」のあとの時代の<競争>ということを、考えることができる)。

20年ほどまえに書かれた文章であるけれども、このような状況の核心は、いまでもひろく見られるものではないだろうか。