「自分のため」を超えるとき。- イチローの引退記者会見より《その1》。 / by Jun Nakajima

 イチローの引退と引退記者会見(2019年3月21日)。いろいろな方々がいろいろな仕方で、それぞれに共感するところを書いている。人それぞれに、どんなところに、どのように「惹かれた」のかを読むのは、興味深いところである。

 引退会見で放たれた言葉は、たしかに、さまざまな角度から、人の心をとらえるものである。

 あらかじめ言っておけば、ぼくはイチローが好きだし、尊敬している。試合をいつも追っていたわけでないし、いわゆる「ファン」という言葉も違うような気がするけれども、ぼくの「世界」のなかには、やはり、イチローがいる。

 その「存在感」はどこか独特のもので、言ってみれば、イチローの節目節目の言動はどこかぼくの深いところに届き、また、ぼくの人生の節目節目で、ぼくはイチローの言動を心のどこかで意識している。

 そんな前提で、ぼくの関心と共感のフィルターは作動してきた/作動していることを、あらかじめ伝えたうえで、引退会見の「言葉」にふれたいと思う(「言葉」というように括弧をつけるのは、それがただの知識的な「言葉」ではなく、経験と思考を通ってきた「知恵」としての言葉であるからである)。

 いろいろとふれたい点があり、今回はその一つだけにふれることから、タイトルは「その1」とつけておきたい。いずれ、「その2」を書くかもしれないし、書かないかもしれない。


 引退会見は、冒頭で、イチローが短い言葉を語ったうえで、会場からの質問に応える仕方で進められた。

 今回「その1」でとりあげたいのは、「イチロー選手にとってのファンの存在」を尋ねられたときの、イチローの応答である。

 この応答の前半部分では引退に際し「東京ドーム」で起きた出来事にふれたのだが、その後半部分で、イチローはこれまでをふりかえりながら、次のように語った。



…まぁ、ある時までは、まぁ自分のためにプレーすることが、まぁチームのためにもなるし、見ていてくれる人も喜んでくれるかなというふうに思っていたんですけれど、、まぁニューヨークに行ったあとぐらいからですかね、人に喜んでもらえることが、一番の喜びに変わってきたんですね。その点で、ファンの方々の存在なくしては、自分のエネルギーはまったく生まれないと言っても、、いいと思います。

イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)


 この発言のあと、静まった会場に少しのあいだ目をそそぎ、会場の反応をみながら、「え、おかなしこと言ってます?僕、大丈夫?」と、イチローはおかしみを表情にふくませて語り、場の雰囲気をゆるめる(この発言をふくめ、ぜひ映像で見てほしいところである)。

 それにしても、「自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見ていてくれる人も喜んでくれる」ところから、「人に喜んでもらえることが、一番の喜びに変わってきた」というところへの変遷、また「ファンの方々の存在なくしては、自分のエネルギーはまったく生まれない」という確信は、ぼくをとらえる。

 なんとなく、イチローには「自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見ていてくれる人も喜んでくれる」というイメージがついているように、ぼくには思われる。

 それが、あるとき(ニューヨークに行ったあとぐらいから、というのがイチローの言なのだけれど)、イチローの内面でおおきな地殻変動がおこりはじめ、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」へと変動してゆく。

 言葉では数行で語られることだけれど、じっさいには、とてもおおきな、内面の地殻変動である。

 さらには、以前のイチローからは聞くことができなかったであろう(どこかで語られたかもしれないけれど、ぼくはイチローからこのような確信のもとで語られるとは想像していなかった)、「ファンの方々の存在なくしては、自分のエネルギーはまったく生まれない」ということが語られるのである。

 もちろん、「自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見ていてくれる人も喜んでくれる」という状況においても、他者の喜びを念頭においた「自分のため」である。でも、それがどこかでつきぬけて、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」というところへ、イチローをおしだしてしまう。

 でも、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」は、より次元の高い(あるいはより深い)「喜び」である。ぼくは、そう思う。


 他方で、この変遷は、「自分のため」をとことんまでおいもとめてきたイチローだからこそ、経験してきたものだとも思う。

 「自分」がないままに「人に喜んでもらえる」ところへとつきすすんでゆくことで、「自分」という存在がわからなくなったり、自分の心身をこわしてしまったりすることがある。「他者のため」「人のため」という呪文の危険なところである。

 だから、「自分のため」というフェーズをとことん生きてみることが大切であったりするのである。けれども、「自分のため」という言動はどこかで、「喜び」の深さにおいて、限界がきてしまう。「自分のため」が他者に向けられていたとしても、である。

 どこかで、「自分のため」でありながら、「自分のため」を超えてゆくことが、喜びを深めることにおいて要請される。別の言い方をすれば、<喜び>をとことんおいもとめてゆくと、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」という地点へ、ぼくたちの生はひらかれてゆくのである。