「遠回りすることでしか、本当の自分に出会えない」こと。- イチローの引退記者会見より《その2》。 / by Jun Nakajima

 イチローの引退記者会見(2019年3月21日)で放たれた言葉たちに惹かれながら、ブログ「「自分のため」を超えるとき。- イチローの引退記者会見より《その1》。」を書いた。《その1》を書き始めたとき、《その2》を書くかどうかは決めていなかったのだけれど、体験と思考を通過してきた言葉たちが魅力的で、《その2》を書こうと思う。

 《その1》では、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」という言葉をとりあげ、「自分のため」を追求することを他者への貢献や他者の喜びの方法としてきたイチローが、野球人生の途上で、「人に喜んでもらえること」を一番の喜びとするところへと変わってきたことにふれた。

 他者のためであっても「自分のため」をとことん追求する方法を、どこかで乗り越えるときが、イチローのなかのおおきな地殻変動としてあった。そのことが引退記者会見で語られたのであった。

 この「喜び」ということと共に、《その2》では、イチローの<生きかた>にふれておきたい。


 引退記者会見は質疑応答の形ですすめられたのであるが、そのなかで、「生き様で伝えたこと、伝わっていたら嬉しいと思うこと」についての質問がイチローに投げられた。

 「生き様」という言葉に少しとまどい、「生きかたというふうに考えれば…」という前置きをしながら、イチローはつぎのように語った。


…ま、先ほどもお話しましたけれど、、人より頑張ることなんて、とてもできないんですよね。あくまでも、はかりは自分のなかにある。それで自分なりに、そのはかりを使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと超えていく、ということを繰り返していく。そうすると、いつの日かなんか、「こんな自分になっているんだ」、っていう状態になって。だから、少しずつの積み重ねが、、それでしか、自分を超えていけない、というふうに思うんですよね。

なんか一気に、、一気になんか高みにいこうとすると、、今の自分の状態とやっぱギャップがありすぎて、、それが続けられない、と僕は考えているので。ま、地道に進むしかない。進むというか、進むだけではないですね。後退もしながら、あるときは後退しかしない時期も、あると思うので。でも、、自分がやると決めたことを、信じてやっていく。でもそれは正解とは限らない、ですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど。でもそうやって、遠回りすることでしか、なんか本当の自分に出会えないというか、そんな気がしているので。…

イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)


 自分のなかにじぶんの「はかり」をもちながら、少しずつの積み重ねでもって、自分を少しずつ超えていく。そして、こう語られる。「遠回りすることでしか、本当の自分に出会えない」と。

 もちろん、これはイチローの考え方である。けれども、イチローの深く長い体験と思考を通ってきた言葉である。

 ぼくが感じるのは、現代において、「本当の自分」というものが、確かにあるものとして安易にとらえられ、また「すぐに」出会う(ことができる/べきである)ものとして、感覚されているのではないか、ということである。

 イチローの体験と思考と言葉は、そんなところに、「少しずつの積み重ね」と「後退」と「間違ったことを続けてしまっていること」という、<遠回り>の生きかたを提示している。

 <遠回り>という言い方には、「遠回りしない」生きかたが、暗黙裡に対置されている。さらにもう少しうがってしまえば、<遠回り>自体のなかに、「生きる」ことの本質がこめられている。少なくとも、ぼくにはそう聴こえる。

 質疑応答のはじめのほうで、「後悔することは?」と尋ねられたイチローは、「後悔などあろうはずがありません」と発言しながら、「結果を残すために、自分なりに重ねてきたこと」、結果としての記録ではなく、この<重なり>に光をあてて語っている。

 <遠回り>の生きかた、その<遠回り>自体のなかに「生きる」ということがある。