思想を成長として見る「成長的な見方」。- 鶴見俊輔のまなざしと視点。 / by Jun Nakajima

思想家の鶴見俊輔を補助線として吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』を読み解く、上原隆の著作『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)のはじめのほうに、思想を成長として見る「成長的な見方」に焦点があてられている。

吉野源三郎は『君たちはどう生きるか』の著者として有名であるけれど、他方で、雑誌『世界』の初代編集長としても知られていた。

吉野の他の著作群も視野におさめながら、鶴見俊輔は、吉野によって書かれた『エイブ・リンカーン』の書評も書いていたようだ。ここでは、上原隆の文章と引用を導きとしながら、「成長的な見方」を見ておきたい。


リンカーンはドレイ解放で有名なアメリカの大統領である。リンカーンは若いときに、ドレイの競売を目にし、モノのように扱われる人間の姿に心を痛めるのだが、リンカーンはそれから10年ちかくを、ドレイ解放とは関係なく、弁護士として人生を歩む。ただ、そのあいだも「心の痛み」は静まらない。

このことを端緒にして、鶴見俊輔はつぎのように書く。


 自分の心の底にやきつけられたコテのアトが、ドレイ解放の運動から無縁な道をただぽくぽくあるいていたころのリンカーンをどれほど悩ましていたかがわかる。
 こうした仕方で、人が育ち、人をとおして思想が育ってゆく。この成長として理解された思想を、われわれは、忘れやすい。戦後の進歩思想は、思想について、成長的な見方よりも、むしろ合成的な見方をとってきたのではないか。その合成的な方法の一つの拠点として『世界』(吉野氏の編集してきた雑誌)を見るとして、この方法の有効性をも私は信じているけれども、思想を成長として見る精神につらぬかれた同じ人の著書『君たちはどう生きるか』および『リンカーン伝』は、合成の方法によっては達することのできない思想の高さを示していると思う。

鶴見俊輔「吉野源三郎『エイブ・リンカーン』」『鶴見俊輔著作集』第五巻(筑摩書房)※上原隆『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)より


ここで述べられているように、鶴見俊輔は、「思想」ということについて、二つの「見方」を示している。上原隆(『君たちはどう生きるかの哲学』)による紹介も踏まえて繰り返すと、つぎのようになる。


●「合成的な見方」:正しい理論や知識を組み合わせて論じること。

●「成長的な見方」:思想を生きられたものとして見るということ。ある人が生き、失敗し、その体験をもとに成長していく、その過程を思想としてつかむこと。


ぼくは、鶴見俊輔の言う「成長的な見方」にひかれる。「成長的な見方」について、「伝記的な方法」と呼んでもいいかもしれないと上原隆が書いているように、そこには、人それぞれの「物語」が見えてくる。

なるほど、鶴見俊輔の語る「イシが伝えてくれたこと」(『思想をつむぐ人たち』黒川創編、河出文庫、所収)を読んでいたときに感じていたことを、この「成長的な見方」が言葉化してくれているようにぼくは思うのである。

鶴見俊輔のまなざしは、鋭く、あたたかい。「なるほど」が、ぼくのなかでつづく。鶴見俊輔がどれだけ多くの人たちをひきつけてきたのか、その理由の一端がわかるような気がする。


「自分の心の底にやきつけられたコテのアトが、ドレイ解放の運動から無縁な道をただぽくぽくあるいていたころのリンカーンをどれほど悩ましていたかがわかる。こうした仕方で、人が育ち、人をとおして思想が育ってゆく。…」

こう、鶴見が書くとき、そこにはリンカーンが「生きる物語」が見えてくる。

ここではリンカーンに焦点があてられているけれど、『君たちはどう生きるか』の主人公である本田潤一(コペル君)も、「成長的な見方」で読むことができる。

そしてその視点はそのようにして、人それぞれの人生を照射することができるし、また生きかたにもなってゆく。いわば「合成的な生きかた」というものでは到達できないところに、「成長的な生きかた」は人をおしだしてゆく。そんなふうに、ぼくは思う。